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kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの男です。色々と思ったことを記します。

「リア充アピール代行サービス」の意味が分かる部分と分からない部分

私の考え

以下の記事を読みました。

news.livedoor.com

はじめに

以下、「リア充アピール代行サービス」関連に関して否定的なことも記しますが、このサービスを提供されている方(会社)や利用者の存在を否定したり非難したりする気持ちは全くありません。

このサービスに限らず、私に限って言えば「こんなサービス全く必要ない」と思うけれど世の中には一定数の需要があるサービスは多数ある訳であり、それが自分の価値観と合わないからと言うだけで、公序良俗に反するなどしている訳でも無いのに「存在自体を否定したい」などと思うような気持ちは全く無い、というような意味です。

最初にお断り申し上げます。

根本的に感じる疑問

これはそもそも論として、利用者の存在というか需要そのものに対する疑問なのですが、「本来の自分とは異なる自分をアピールする」ことに何の意味があるのかな?と率直に疑問に感じます。

承認欲求という言葉がありますが、それは確かに私にもあるように思います。例えばブログで文章を書くことも、その内容に共感して頂いたりして「承認」されたいというような思いが、心の奥底には必ずあるものだと思っています。

が、それは私が正直に思うことを書いて共感して頂くからこそ「承認」されたと欲求が満たされるのであって、自分が思ってもいないような事柄を書いて、例えばその記事が大きく取り上げられたりして多く閲覧されたとしても、そもそもそれは「自分の思いとは異なる内容」なのだから、嬉しくも何とも無いと率直に思う訳です。

同じように、例えば私生活の状況を写真や文章でアップすることにより「承認欲求」を満たそうとする行動自体は(自分がやるか否かは別として)十分に理解出来るのですが、その内容を身の丈以上に「リア充アピール代行サービス」などで割り増しして、それで例えば「イイね!」の数や閲覧数等が増えたりしたとして、それで何が嬉しいんだ?という部分が根本的な疑問となります。

それを提供する会社はそもそもそういう「需要」があるので存在するのでしょうし、その内容が公序良俗に反しているなどしていない限りは「需要」を満たす為のサービスを提供しようと会社を興すことは社会経済(景気)を考えると全くおかしなことでは無いように思いますので、そういう会社が存在することに疑問を感じるというよりかは、そもそもとしてその「需要」の存在に、上で述べたような疑問を感じる、という意味となります。

何とか理解してみる(その1) 「虚像を演じて評価される」という承認欲求

そのような需要の存在する意味を自分で何とか考えてみました。

もしかしたら、本当の自分の姿で無くとも、役者が役を演じるように、自分というものを題材としてSNS上で架空とも言える「リア充な人」を作り出し、それで多くの評価が得られれば、それを「作り出した」人間としての承認欲求が満たされる、というような話なのかも知れないと思いました。

もう少し平たく書くと、評価されている対象が「本当の自分」なのかどうかはあまり問題ではなく、単にSNS上での「イイね!」等の数が増えることをゲーム感覚で楽しむという感覚です。

ただ、「自分とは全く別人」の写真などで嘘を付いて評価をされても嬉しくも何とも無いでしょうから、その評価の対象が「リア充具合などには虚構が混じるが、人物自体は本当の自分」であることがポイントだという意味で「役者が役を演じるよう」な感覚なのかも知れないと思いました。

評価をする人の側から見れば相手は「本当の姿」だと思っているでしょうから、「騙している」という意味で倫理的に問題があるようにも思いますが、上のように考えれば何とか「意味は理解出来るかも」と言うような意味となります。

何とか理解してみる(その2) サービス自体を「楽しむ」

リア充アピール代行サービス」と言うのは、最終的には「写真などを撮って、SNSにアップする為」なのかも知れませんが、そのサービスを受けている最中というのは、お金を介しているとは言え、サービス会社の人と友達のように振舞って写真を撮ったり何かを食べたりする訳ですから、もしかしたらそのこと自体が純粋に「楽しい」と感じる人も居るのかも知れないな、とも思いました。

もしくは、どのような写真を撮っていけば「イイね!」の数が増えるか等に思いを馳せながらサービスを受けている最中はそれ自体が楽しいのかも知れないな、とも思いました。

おわりに

上で「何とか理解してみる」として書いた二つは、私自身は全くそのようには思わないのですが、「リア充アピール代行」という需要を肯定化する為に何か理由が付かないかと敢えて理屈を考えたら、という類の話となります。

私自身は現在は結婚しており子供も居ますが、独身時代は絵に描いたような「非モテ」「非リア充」でしたが、多分当時にSNSや「リア充アピール代行サービス」というものがあっても、利用することは無かっただろうと確信的に思う訳ですが、それは私自身はそのような部分が「充実している」こと自体にあまり価値を見出せないからなのですが、それは私に限った話なので、世の中にはそういう部分が「充実する」ことを望みながらも諸般の事情で「非リア充」だという人も恐らく一定数居るのだろうな、という点も今回改めて思いました。

【私の禁煙の記録】 11日目~25日目で感じたこと

禁煙の記録

はじめに

ブログの更新休止が伴いますのでまた後日に改めてきちんと報告するのですが、四月の上旬に、全身麻酔を伴う手術(と入院)を行う予定となっていまして、その関係で「禁煙」する必要が生じました。

と言う訳で、三月に入ってすぐに禁煙を始めまして、本日で25日目です。そのままずっとやめるのか、退院後にまた喫煙を再開するのかはまだ決めてませんが、とりあえず手術と入院・退院までは(当たり前ですが)やめる予定です。

せっかくの機会ですので、気付いたことなどを何回かに分けて記そうと思っていまして、一回目は以下の記事で記しまして、今回が二回目となります。

t-kazu-t.hatenablog.com

今までの喫煙歴(依存の度合い)については上記一回目の記事をご参照下さい。

ぶり返して繰り返される「甘いもの依存」

タバコをやめてすぐに、飴やチョコレートなど甘いものを食べる機会が増えたのですが(元々は滅多に食べない人間でした)、一週間ほど経った時にもの凄く気持ち悪くなって、その時に「甘いものの食べすぎ」に気付き、口の中が常に甘い感じになっていること、及びそれが原因で基本的に食事が(普段より)美味しくないことに「明確に気付く」という瞬間があったと、上記一回目の記事で書きました。

それで一旦は甘いものはほとんど食べなくなったのですが、やっぱり「口寂しい」という感じが再発して、飴を食べることを再開しまして、それでまた暫くして上記と同じように「もの凄く気持ち悪く」なり、また暫くはやめましたが、また最近は少し食べ始めた、という感じで繰り返しています。

他にもスナック菓子などの間食が増え、体重も増えた

甘いもの以外にも、スナック菓子などの間食が明らかに増えました。

食事やお酒の量はほとんど変わらないと思いますが、体重は禁煙を初めてまだ一ヶ月足らずにも関わらず、5kgも増えました(身長178cmで体重69kg→74kg)。

おわりに(まだまだ「永久にやめよう」とは思えない)

今のところ、タバコはこのまま永久にやめるのか、それとも病気が治った後は再開するのか明確に決めている訳ではありません。

禁煙の効果として「食事が美味しくなる」とよく聞いていましたが、私に限って言えば、甘いものやスナック菓子などの間食の影響で明らかに「食事は美味しくなくなった」と確信的に実感していますし、にも関わらず体重は増えている(平たく言えば意味も無く太っている)訳ですから、こんな状態がずっと続くことが「健康的」であるとは決して思えない、というのが現在の率直な感想です。

ただし、これから(四月の上旬に)入院や手術がある訳ですから、まだまだ最低でも一ヶ月程度は禁煙を続ける必要がありますので、もう暫く経ってくれば、もっと良い方向に変化が見られるかも知れないので、そうなれば「永久に禁煙を続けよう」と思えるのかも知れませんし、現段階では特にどちらと決め付ける必要も無いのだろうと思っています。

「あっという間の十年」が充実した時間で有り難いと思う話

結婚や家族のこと

タイトルでは「十年」と書きましたが、私(45歳男性)は結婚して十数年が経ちまして、子供は一人居り今春から小学四年生なので、子供が生まれてから数えても、もうすぐ十年が経つことになります。

それは「あっという間」と言っても過言では無いと思えるほど、過ぎていくのが早い時間だと今から思い返せば、そのように感じています。

※ ※ ※ ※ ※

当たり前の話ながら、十年の時が過ぎるということは、自分の年齢も同じだけ重ねている訳ですが、その時間があまり充実していないと自分で感じてしまうようなことであれば、「あっという間に歳を取ってしまった」という意味での、喪失感のようなものを強く感じてしまうのかも知れません。

私の場合、体力面の衰えを実感するなど上記のような喪失感のようなものを全く感じない訳ではありませんが、基本的に「非常に充実していた十年」だったので、「何もしないまま時が過ぎてしまった」というような思いは全くありません。

※ ※ ※ ※ ※

独身の最後のほうで大きめの手術をして一ヶ月ほど入院をしたのですが(真珠腫性中耳炎という耳の病気です)、それが無事に終わって半年ほどした時に妻と知り合い、意気投合してすぐに結婚して、三年ほどして子供が出来て、更に暫くして仕事で独立して(フリーランスになって)、それ以降はずっと自宅の一室で仕事をしていますので、仕事をハードにこなしつつも家族とも時間も普通に確保出来たりして、プライベートも仕事もずっと全力疾走で走ってきたように思います。

基本的に「ずっと忙しい」訳ですが、フリーで一人でやっていても仕事が忙しいほどあるということは自らの仕事が一定の評価を得られているということの証であるように思いますし、また家族の用事で忙しいというのは「自分以外の誰かに自分の存在を求められている」ということであると思いますので、そのようなことで忙しい時間を過ごしながら歳を重ねられているということは、大変有り難いことなのだろうと改めて感じる次第です。

※ ※ ※ ※ ※

また、仕事と言うのは良くも悪くも「マンネリ」的になる部分がありますが、子供が出来て子育てをしている部分と言うのは、本当に子供の成長と共に自らが日々見える景色も変わるという感じで、もちろん大変ではありますが基本的に楽しく充実した時間である訳です。

そのような時間を平穏で充実したものとして過ごせるのは、妻が私とずっと平穏に過ごしてくれているからという部分が理由としては一番大きいと思う訳でして、そのような妻に感謝したいと改めて思いました。

「一流の○○は云々」みたいな記事を読み思うこと

私の考え

インターネット上の記事でよく「一流の○○は云々」みたいな記事があります。○○の部分には「サラリーマン」とか「人」とか、そんな文言が入ります。

それら全ての記事という訳ではありませんが、読んだ後に以下のように思うことも多いです。

本当に一流の人は、こんな記事、読んでいないのだろうな、と。

その理由は、その内容がデタラメというか、それと一流かどうかは無関係じゃないの?みたいに思う時もありますし、逆にその内容が当たり前過ぎて、一流になるような人はそんなこと誰かから言われなくても自然にやっているでしょうよ、なんて思う時もあります。

そして、そのような記事をついつい読んでしまっている私自身は、明らかに一流「でない」人なのだろうな、なんて改めて思うのでした。

「餃子の王将」と「ラーメン横綱」の思い出

外食など 子供のこと

つい先日、妻と息子と私の三人で、「ラーメン横綱」に行きました。妻はまあ普通ですが、私と息子にとっては「大好物」でして、普段の生活圏にお店がある訳では無いのでしょっちゅう行く訳ではありませんが、たまに思い出したように行っています。

※ ※ ※ ※ ※

私が子供の頃に両親に連れて行ってもらった外食で、最も頻度が高かったと記憶しているのは「餃子の王将」でして、当時から美味しいと感じていましたし、大人になってからもずっと好きで今でも定期的に行っています。

味が美味しいと感じているというのが大前提ですが、その他の要素として、やはり私が子供の頃の「家族で出かける外食」というのは自分にとってかなり大きな楽しみの一つでしたので、そのような思い出の中にある「餃子の王将」というものに、歳を取った今でも特別な思い入れのようなものがあるのかも知れません。

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私が子供の頃に連れて行ってもらっていた「餃子の王将」のお店は何箇所かあったのですが(家からの距離が同じような何箇所かにお店があった)、その中でも最も頻度が高かったお店があるのですが、その目の前に、ある時「ラーメン横綱」が出来ました。曖昧な記憶ですが私自身が成人するかしないかの頃だったと思います(今から25年ほど前)。

そして暫くして、私が子供の頃に両親から連れて行ってもらっていた「餃子の王将」のお店は潰れて無くなってしまいました。目に前に「ラーメン横綱」が出来たことが関係あるのか無いのか今になって思えば全く分からないように思う訳ですが、当時の私は「『ラーメン横綱』が目の前に出来たせいで、自分の思い出の場所である『餃子の王将』が無くなったじゃないか!」なんて勝手に思い込んで、食べもせずに「ラーメン横綱」を敵視していたのです(今から思えばかなり浅はかな考えです)。

そんな訳で「ラーメン横綱」には行って無かったのですが、それから何年経った頃かは忘れましたが、何か機会があってお店に入り食べてみると、その美味さに驚いたのでした!(笑)

それ以降、「餃子の王将」も「ラーメン横綱」も両方とも自分の「好物」となり、そして結婚して子供が生まれ、今では息子を連れてどちらのお店でも美味しく頂く機会がある訳です。

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そんな訳で、「餃子の王将」や「ラーメン横綱」に限らず他にもいくつか「よく行くお店」はありますが、どこのお店かは別として、外食に対して私が子供の頃に抱いた「楽しい思い出」のようなものが、息子にも残ってくれたら良いな、なんていつも考えている次第です。