kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

キセル乗車をするような人間は厳罰に処せばよい

以下の記事を読みました。

news.livedoor.com

以下の囲みに本文の一部を引用します。

JRの入場券を悪用し別の男らのキセル乗車を手助けしたとして、警視庁保安課は建造物侵入の疑いで、私立大3年の男子学生(22)=東京都東久留米市=を逮捕した。

同課によると、男子学生はアイドルグループ「HKT48」のファンで、別のファンなどのキセル乗車を手助けするため、駅構内であらかじめ準備した入場券を渡す「迎え」や「MK」と呼ばれる行為を繰り返していた。

男子学生は「キセル乗車の手助けができる者は、福岡・大阪・名古屋など各地におり、ネットワークは数百人に及ぶ」と供述。男子学生は1回につき2千~3千円の報酬を受け取り、4年ほど前から約150回繰り返していた。ネットワークは握手会で会ったり、別のファンに紹介されたりして知り合い、LINEなどでキセル乗車についてのやり取りをしていた。同課はアイドルグループファンなどの間でキセル行為やその手助けが横行しているとみて捜査している。 

と言う訳で、記事の内容を読む限りは「つい出来心で」みたいな感じではなく非常に計画的であるように思いますし、

更には他人のキセル乗車を手助けすることによる「報酬」まで受け取っている訳ですから悪質極まりないように思えます。

鉄道会社の、日々の安全な運行を行ったり、また安全な運行を支える為に線路その他のメンテナンス等を行う為に汗して働いている方々の貴重な労働を愚弄する極めて悪質な行為であるように思えますし、

このようなことをする人間は私にはクズ人間だとしか思えない訳ですが、

まあ人間のクズと感じるか「この程度でそこまで言わなくても」と感じるかは人それぞれなのかも知れませんが、

どちらにしても鉄道というのが極めて公共性の高い社会インフラであることを考えれば、このような人間の為に例えば鉄道会社の収支が悪化して安全な運行が行えなくなれば社会にとっては極めて大きな損失である訳ですから、

そのような意味でも決して軽い罪とは思えませんので、何か情状酌量の余地があるような事情があれば別ですが単なる自己中心的な動機に過ぎなかったのであれば、

現行法において考えられる最も重い罪で処されるべきであると、個人的にはそのように思いました。

「サラリーマンを辞める!」が「目標」で良いのか

「サラリーマンを辞める!」が「目標」で良いのか

よく「サラリーマンを辞める!」ことが「目標」になってしまっているような言説を目にするのですが、

確かに何か目的があって、サラリーマンを辞めて起業するなり、フリーランスになるなりすることを目標にすることは良いことだと思いますが、

とにかく「サラリーマンを辞める!」こと自体を一義的な目標にする、というスタンスには少し疑問を抱きますし、

何より他者に対してそれを「煽る」ような言説は、無責任な印象さえ受けることが多いです(記事の内容によりますが)。

不本意な現状との関係性

「今の会社での立場や仕事の内容は不本意だ」という不満を抱くことは誰にだって起こりうることだと思いますが、

それが現在勤めている会社を辞める動機となるのは当然だとしても「サラリーマンを辞める」という動機には必ずしもなりません。

何故ならサラリーマンという働き方は踏襲したまま、他の会社や他の業種に「転職」するという道だって有り得る為です。

すなわち、サラリーマンという働き方と決別し起業するなりフリーランスになることを目指すのならば、「現在の会社が嫌」とか「現在の仕事が嫌」とか、そういう次元とは異なる動機が、本来あって然るべきように思います。

仕事の持つ意味

仕事というのは自分が生きていく為のお金を稼ぐ行為であると同時に、自分の能力を活かして何かの付加価値を生み出し、そのことによって世の中が豊かになることに貢献するという側面が必ずあります。

平たく言えば、働く人が生み出した財なりサービスを受け取る消費者は、もちろん対価としてお金は支払う訳ですが、その財なりサービスが無ければ生きていくことが困難となったり、そこまでいかなくても苦痛であるとか楽しくないとか、困ることになるのでその財なりサービスを消費する訳で、

そのような「他者」が無ければ困ってしまう何かを生み出している行為が「仕事」である訳です。

働き方の意味

自分自身も生きていくためにお金を稼いだり生活をしながら、それらと両立しながら世の中を豊かにする為の何かを生み出す行為としての「仕事」をする為の「働き方」として、サラリーマンよりも起業するなりフリーランスになるなりしたほうがより効率的に何かを生み出せるのであれば、それは「目指すべき道」であるように思いますが、

仕事の種類や特性などから組織に属したサラリーマンであるほうが効率的にそのモノを生み出せる場合には、現状が不満なら転職は目指すにしても働き方としては「サラリーマン」のままのほうが良い場合だって当然ある訳で、

もし働く人に対して「偉い」「偉くない」の優劣をつけるのであればそれは生み出しているモノの質や効率性により判断されるのであって、

間違ってもその人自身の働き方がどうであるかなんて、それこそ消費者の側からすれば興味も関心も無いような「どーでも良いこと」である訳です。

そのような意味で、働く人のその働き方がサラリーマンなのか社長なのかフリーランスなのか、そのこととその人が優秀であるかどうかは基本的には無関係であると思っています。

フリーになる覚悟

たまに自らフリーランスになっているにも関わらず「確定申告がダルい」とか言っている人を見かけるのですが、率直に言って「アホなんかな」と思います。

サラリーマンであればそのような雑務はゼロではありませんが非常に少ない訳で、フリーランスになれば全てを自分で行うか、もしくはしっかり稼いでそのお金の一部を支払って誰かを雇ったりどこかに委託して処理するしかありません。

それらの全ての責任を自ら引き受ける覚悟でフリーランスを始めたのなら、「確定申告がダルい」なんてセリフは発し得ないのではないか?と個人的にはそのように思う次第です。

おわりに

私はフリーランスになり現在九年目で、所得もずっと平均的なサラリーマンより多く稼ぐことが出来ていますが、それでも「誰にでもオススメするか」と言えば、決してそんなことはありません。

仕事を失ってはダメという部分での責任の重さや、年金など将来的なことを全て自分で考えたりとか、所得が多く稼げても累進課税なので比例して手取りは増えませんし、なおかつ例えば乳幼児医療制度のような公的サービスも所得制限で受けられなかったり、それだったらそこそこの所得のサラリーマンを続けて退職金(一般的な額の範囲なら非課税かそれに近い)で差額を受け取ったほうが得じゃないかとか、他にも色んな観点から思うことが多々あって、「とにかくサラリーマンを辞めたらばら色」みたいな無責任なことは間違っても言えない訳です。

ただ、私自身の性格や特性からするとサラリーマンとして一生生きていくのは極めて困難であったのだろうと自分でも思いますので、そのような特性の人間であっても、仕事に対するスキルと責任感さえあれば、野垂れ死にせずに生きていく為の道があるのだという意味で、フリーランスなど「サラリーマン以外の道」という選択肢があること自体は、非常に有り難いことだと常々感じています。

お父ちゃんの愛車と息子の夢

お父ちゃん(私)の愛車は、新車で買って、現在九年目。

息子がまだ一歳児の時に買ったので、息子の記憶の中での「お父ちゃんの愛車」はこのクルマ一台のみ。

セカンドカー(主に妻が運転するクルマ)は何度か変わったが、「お父ちゃんの愛車」はずっと変わらない。

息子が幼稚園児の頃、諸般の事情でこの愛車を手放した(乗り換えた)ほうが良いか?というような話を妻としていたら、息子は「手放したらアカン」と泣いて訴えていた。

そのようなことが何度かあったが、その内に諸般の事情が無くなったりして、そのような話をすることも無くなった。

※ ※ ※ ※ ※

先日、妻が入院していて、この愛車で息子と二人で色々と集中的に出掛けた時期があった。

その際に、狭い路地などが多い地域を走ったり駐車したりしていると、やはりこのクルマの「大きさ」を持て余すことを改めて実感した。出口付近に路上(違法)駐車があった関係もあるが、駐車場から出るのに10回近く切り返さないと出られない、ということもあった。

このクルマが我が家にとって「無駄」に大きいのは事実。何故なら九年ほど前に購入した際には、子供は二人目を考えていたから。

しかし「子供は一人だけ」が確定している現在では、明らかに「無駄に」大きい訳である。

※ ※ ※ ※ ※

「やっぱりこのクルマ、大きすぎるし適度に小さなクルマに乗り換えようかな」なんてチラッと息子に話してみた。

もう小学四年生なので、「手放したらアカン」と泣いて訴える、なんてことは無い。息子は落ち着いた口調で以下のようなことを言った。

「僕が免許を取ったらこのクルマを貰って、僕が運転したいねん」と。

それが息子の夢である、らしい。

その頃、このクルマの車齢は17~18歳になっており、余程の人気車種でもない限り、部品の供給が止まったりして、維持するのは難しくなるような年数である。

そのようなことも伝えてみると、「もし壊れて乗れなくなったのなら、それは仕方ないし諦める。壊れてもいないのに手放してしまうのは、納得がいかない。」というようなことを、息子は落ち着いた口調で話していた。

※ ※ ※ ※ ※

いや、私自身の思い入れももちろん強い。なんせ今まで2~3年でコロコロとクルマを乗り換えていた私が、何故だか現在の愛車だけは大変気に入ってしまって、既に九年目に入り、そして今でも飽きたというような感覚を全く抱かない訳だから。

そして、その年月の間に息子も大変成長し、その愛情表現も幼い頃とは様変わりしているが、それでもずっとこのクルマに対する愛着を抱いてくれている。

そんなこの愛車は幸せ者であると言えるが、最も幸せ者であるのはこの私であることは間違いない。

そんな日常に感謝したいと改めて思いました。

妻の入院で、息子の成長を改めて実感した話

はじめに

今春に私自身が手術、入院したことは当時の当ブログの記事で書いた通りなのですが、それから半年ほど経って、今度は妻が手術、入院することになりました。と言っても既に手術は無事に終わり無事に退院しています。

同じ年に自分も妻も両方なんて、と思ったりもしましたが、無事に終わりましたのでホッとしている次第です。

息子の成長を改めて実感する

妻の手術、入院と言えば、息子が幼稚園児の時にも一度あったのですが、その時は本当に大変で、妻のお母さんや私の母親に手伝いに来てもらったりもしていたのですが、現在の息子は小学四年生になっており、大半のことは自分で出来るという意味で、今回はそれほど大変さを感じませんでした。

もちろん食事の用意や洗濯などは私がやる訳ですが、自分で服を出して着たりとか、学校の持ち物の準備とか、そういったことは息子が自分でやっていましたので、少し頼もしく見え、その成長を改めて嬉しく思いました。

あと、学校から家に帰ってきたら遊び等の前に、先に宿題や自主勉強などの勉強を全て終わらせるというルールで一年生の時からずっとやっていて、それが完全に習慣付いていることも、「寝る前になって何かが終わってないと焦るようなことが無い」という意味で、当たり前のことのようで大切なことなのだろうと改めて感じた次第です。

入院期間の短さに改めて驚く

今春の自分自身の時にも思いましたし今回も思いましたが、昔と比べると入院期間が非常に短くなっている気がします。

病名等は書きませんが(悪性等ではありません)、今回の妻の手術も全身麻酔で5時間以上かかるような手術だった訳ですが(すなわち「ちょっとした手術」というような感じではありません)、内視鏡手術で傷が小さかったことも関係しているのだろうと思いますが、手術して丁度一週間で退院でしたので「早っ!」と改めて思ったのでした。

基本的には入院期間が短いことは本人もラクだと思いますし家族としても助かるという印象です。

フリーランスのメリットを享受する

私は自宅でフリーランスで仕事をしていますので、ようは家にずっと居る訳ですが、今回のような際には、ご飯の準備とか家の用事などを済ませたり、もしくは学校から帰ってくる息子を出迎えたり勉強を見たりとか、妻がおらずに自分一人でもラクラクにこなせますし、丁度急ぎの仕事があったりしたのですが、いつでも自分の好きなペースで仕事を進められますので、非常にありがたい働き方だと改めて実感しました。

まあ、プライベートと仕事の境目が曖昧なことの好き嫌いは人それぞれのようですし、また全てが自己責任の世界ですので向き不向きはあるのでしょうが、最低でも私に限って言えば「自分に大変合っている」と改めて感じた次第です。

息子を連れて遠出もした

その期間の週末に息子の部活が休みだったので、どこか遊びに連れて行ってやろうかと思って行きたいところを聞いてみると、急に「忍者村」と言い出しまして(甲賀の里 忍術村)、その日は戻ってから妻の面会に行く予定だったので(手術後はまだ息子は会って無かったのでその日に連れて行く予定だった)忍術村に行っても長居は出来なかったのですが(片道一時間半ほどかかります)、まあ息子も普段は頑張っているということで、連れて行き遊ばせて足早に帰ってきたりしました。

そんなこともあり、また私自身は入院期間中は毎日面会に行ったりしてましたので、普段は稼働率が悪い私の愛車も今回は大活躍でした。

おわりに

現在は妻が退院して既に十日ほど経っており、ほとんど日常生活に戻ることが出来ていますが、まだ重いものは持ってはダメなどの制約があるので、日々の買い物には付き合ったりしているのですが、そういう際にもやっぱりフリーランスで良かったな、と日々感じている次第です。

そんな訳で、妻の手術、入院と息子の成長その他に関して記しました。

待合室の窓の景色

ある病院の待合室。一時期よく通った病院の待合室。

先日、かなり久しぶりに、その病院に行く機会があった。待合室にて、ふと窓の外に目をやると、まだ幼い息子がこちらを見ていた、気がした。

そう言えば、もう五年ほど前だったか、この病院に来た際に、何かの用があり、妻と息子を連れてきたことがあった。

連れてきたと言っても病院には私一人で入り、妻と息子の二人には近くのお店などで時間を潰してもらっていたのだが、私が待合室の窓の外にふと目をやると、妻と息子が外に立っていて、息子が笑顔で手をふっていた。

その息子の姿が妙に可愛くて、何とも言えないような幸せな気持ちになったことを、それから五年ほど経った今になって思い出しても、やっぱり何とも言えないような幸せな気持ちになる。

そんな特別でも何でもない、極めて日常的な生活の中にある幸せを積み重ね、それが心の支えとなり今の自分があるのだろう。

そんな当たり前のようで大変有り難い日常に、感謝したいと改めて思いました。

広告を非表示にする