kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

我が家のドラゼミならぬ「ドラプリ」とは!?

我が家の「ドラプリ」とは

最近、算数に関するブログを別に始めたのですが、そこでは現在まで自宅で息子(現在小学四年生)に算数を教える際に作成した問題をベースにブログを書いているのですが、過去に作ったプリントをそのまま公開しているページもあります(例えばコチラ)。

で、公開しているプリントからはもちろん消しているのですが、実際に自宅で息子にやらせていた際の状態では「ドラえもん」の絵が貼ってありました。

思えば、自宅で息子に「5+7の繰り上がりは…」などと算数を教え始めたのは、息子が幼稚園から小学校に上がる少し前の頃でした。

当時は自作のプリントに貼り付けている絵柄も「ドラえもん」だけでなく、当時息子が見ていた他のアニメや戦隊モノ等もありましたが、その内に息子がそれらを見なくなったり(もう少し高学年向けのアニメにシフトしていった)、私が複数の絵柄を用意するのが面倒になったりして(苦笑)、その内に貼り付ける絵柄も「ドラえもん」一本に絞られました。

そしていつしかそのプリントのことを我が家では「ドラプリ」と呼ぶようになりました。確か息子がそのように呼び出したと記憶しています。

自作のプリントだけでなく、市販のドリルをやらせる際もドラえもんの絵柄をシールで貼ったりして、結構な手間ではありました。

少し大きくなればそのような絵柄が無くても大丈夫になるかなと思っていたのですが、三年生の途中くらいまでは絵柄が無いと「ドラえもんが居ない!」と息子は訴えていました。三年生の終わりごろになりやっと絵柄が無くても文句を言わなくなりました。

成長している息子

そのような部分でも成長を見せる息子ですが、算数自体に関しても、上で述べた別ブログの例えばコチラのページで記すような「かなり難しい文章問題」でも落ち着いて取り組めるようになってきました。この手の問題はそれこそ「大人でも方程式を用いずに解くのは難しい」訳ですから、何度やっても分からないという問題があっても良いと思っています。結果としては「分からない」であっても、その難しい問題にきちんと対峙し、例えば10分間なら10分間、紙と鉛筆を使って落ち着いて途中まででも「きちんと考える」ことが出来れば、それ自体が「大した成長」なのだろうと思います。中学受験を目指している訳では無いので、「パターン毎のやり方を丸暗記して満点を目指す」よりかは「一度やり方を忘れたパターンでも、一から考えてやり方を見つけて解く」という行為を落ち着いて行えるようになるほうが極めて重要だと個人的には考えています。

まあ、親としてそのような考え方はある意味「のんき」なのかも知れませんが、上で述べたような「かなり難しい文章問題」であっても七割程度は正答出来る力を息子自身が身に付けてくれているが故に私自身も「のんき」に構えていられるのかも知れません。

なお、息子は天才タイプでも何でもありませんので、上で述べた別ブログの例えばコチラのページで記すような「学校で習う文章問題よりかは少しだけ難しい文章問題」から始めて手順を踏んでステップアップしています。

算数検定6級に挑戦

去年、算数検定を初めて受験し7級で合格したので、今年は6級を受ける予定なのですが(ちなみに算数検定には上記のような「かなり難しい文章問題」は出てこないので算数検定の勉強と上記は全く別の話です)、6級が受かってしまえば次の5級は「中学生の数学」となりますので、今年の6級は「絶対に受かれ」的に気合を入れなくても良いのではないか(当然ながら真剣にやらない、という意味では無い)、と思っています。

おわりに

以上、我が家のドラゼミならぬ「ドラプリ」に関して記しました。なお、ドラゼミ自体は我が家では購読したことはなく、幼稚園の頃から現在までベネッセのほうを購読しています。

何かをやらかしてしまった「罰」として先生が「宿題を増やす」ということの意味

自分の子供の件では無いのでいわゆる他人事と言えなくも無いのですが、話を聞いて思ったことを手短に記します。

とあるお子さん(小学生)のクラスでは生徒が何かをやらかしてしまった時の「罰」として先生が対象の生徒の「宿題を増やす」という時があるそうで、そんな先生も居るのかと少し驚きました。

と言うのも、宿題をはじめ「勉強」が出来るということは子供本人にとっては本来「喜び」であるべき事柄のように思いますし、それと「罰としての苦役」は本来正反対であると思う為です。

そんな建前は横に置き現実を眺めれば、確かに子供たちが勉強を「嫌々」やっているということは往々にしてありますし、そのような現実を全て否定する気持ちはもちろん無いのですが、それでもやっぱり「先生」と呼ばれる立場の人と言うのは子供に勉強の「喜び」や「楽しさ」を教えるべき存在であるように思いますし、またそういう部分の追求こそ教える側の「プロ」としての存在意義のようにも思えます。

すなわち、単にカリキュラム通り教え決まった量の課題をやらせるだけなら、それこそシステムのほうが確立してくれば教える側は「プロ」では無い素人とか将来的にはAI(人工知能)とか、ようは「誰でも良い(雇う費用が安いほうが良い)」となりかねない訳で、もし教師という立場の人がそのように時代が移ろうことをよしとせず「やっぱり教える『プロ』が教えないとダメなんだ」と考えるのであれば、それこそ上で述べたような「学ぶ喜び」をいかに生徒たちに実感させるかという部分に拘るような姿勢を強く有することは自らの「存在意義」に直結する話であるように思う訳です。

上で述べた「何かをやらかしてしまった「罰」として「宿題を増やす」という」行為は、それこそ上で述べたような「学ぶ喜び」とは真逆の、勉強を「苦役」と捉えた考え方であって、それは上で述べたような理想とは相反するようにも思いますし、また生徒に限らず誰かに対して「罰として苦役を課し、それを確実に履行させる」というような振る舞い、考え方はいわゆる「学校教育」とは正反対にあるように思えました。

※ ※ ※ ※ ※

例えば大人であっても仕事で徹夜などしながらハードに働いている人が居たとして、「その仕事が好きで自ら積極的に熱中していたら寝食を忘れてしまっていた」という人と、「上司から懲罰的に仕事を増やされそれを消化する為に徹夜している人」の両者を比べれば、同じような職種で同じような労働時間であってもスキルが身に付くという意味での有益性は天と地との差であるように思いますし、そしてそれは子供にとっての「勉強」も基本的に同じことのように思います。

そのような観点からも、現実世界は全てが理想通りとはいかないことは重々承知していますが、それでもやっぱり教える側の「プロ」である先生という立場の人には、「勉強を苦役と捉えず、出来るだけ学ぶ喜びを感じられるように生徒を導く」という部分には拘って欲しいと、個人的にはそのように考える次第です。

仕事に「責任感」を持って働き「楽しさ」を知る

はじめに

以下の記事を読みました。

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上の記事を読み深く共感した一文を以下に引用致します。上記記事の主役である森田正光氏のコメントです。

「元々仕事に興味がなかった僕でも、責任感を持って働き、ここまで来れた。責任感を持つことで人生は変わる。つまらないとか自分に合っていないというようなことを考えるのは、ある意味責任感を感じていない証拠。今後もその職場でやっていこうと思うのなら、どんな小さな仕事でもその責任を果たすことが極めて重要。その積み重ねによって成長し、より責任のある仕事を得られるようになり、それがお金にもつながっていく」

上の一文を読み改めて思ったことを手短に記します。

全く興味が無かった仕事でも「一生の仕事」に成り得る

私自身も学生時代に比較的興味がありそこそこ得意だった勉強があり、それが活かせる業種(設計の仕事)を希望して就職先を選び就職しながらも、希望とは全く違う部署の配属になり希望したものと同じ部分は「設計」という部分のみで分野自体は興味も関心も全く無く学生時代にもほとんど勉強していなかった分野の設計をすることになってしまったという経緯があります。

しかしながら、

・仕事に興味が無いからと言って一生懸命働かないのであれば早く辞めて他を探せば良いだけの話なのであって、逆にその仕事を続ける以上は一生懸命頑張って「一流」(と言うと大げさですがようは「仕事が出来る人間」)を目指すべき。

・入社直後は自分自身が可愛げのない新人ということもあり偉そうに横柄な態度で接してくる若者世代の「先輩」も多いが、他を圧倒するほどの仕事の実力さえ身に付ければそのような相手の態度は必ず改まるハズであり、逆にそれでも居心地が悪いのであれば辞めるのはそれからでも遅くは無い訳で、まずは自分自身の「努力」で解決出来る部分の「仕事の実力を身に付ける」という部分を頑張ってみたい。

というような、今になって思えば真面目なんだか不謹慎なんだか分からないような理由でまずは仕事に対してそれこそ「寝食を忘れる」という感じで頑張って取り組んでみたところ、上で述べた「先輩」たちよりももっと上のいわゆる「上司」と呼ばれる立場の人たちの目に留まったようで、早い段階から仕事の面白い(重要な)部分に関わらしてもらうことが出来たりして、自分の頑張りに加えてそのような幸運の相乗効果もあり、三年目に入る頃には社内的には圧倒的に「仕事が出来る若者」という立場で一目を置かれる立場となっていました。

その頃には既に自分に対して横柄に何かを言ってくるような先輩や上司も皆無になっていた訳で、それこそそういう部分は「自分の想定通り」に事が運んでいた訳ですが、その時には既にそのようなことは重要な関心事では無くなっていて、そのような「当初目標」が達成されて以降もずっと人一倍仕事を頑張り続けたのは、極めて単純な話なのですが「仕事が心底から面白くなってしまった」からに他なりません。

おわりに

そして新卒で社会人になってから25年近くが経って、立場(働く形態)も変わり現在はフリーランスになって既に九年目ですが、時代や立場の変化により色々と「実際に手を動かす方法など」は様変わりしていますが、本質的には「ずっと同じ仕事」を25年近くずっとやり続けている訳です。

その仕事が働き出す前は「興味も関心も全く無かった」ことを考えると、もちろん決定的に自分に不向きな業種なら別ですが(自分ですぐに思いつくのは例えば接客業とか文筆業など他も多数)、理系の「設計」等というような大枠の部分さえ外れていないのであれば、その対象が元々自分に興味があるモノだろうと否だろうと、そんなことよりも例えば「自分の頑張りが相手の評価や報酬という面で報われている過程を実感する」だとか、「自分の仕事が相手から深く信頼されていることを実感する」だとか、そういう部分を踏まえながらその仕事を好きに「なっていく」という部分のほうが極めて重要なことなのではないかと、冒頭で紹介した記事の一文を読み改めて思った次第です。

「子供を膝の上に乗せて運転する」ことは「悪いこと」であると常識で分からないものか

以下の記事を読みました。

headlines.yahoo.co.jp

この容疑者の男性を擁護する気持ちは全くありませんし「子供を膝の上に乗せて運転しながら子供に少しハンドルも握らせてみる」という行為自体を肯定したい気持ちも全く無いのですが、それでも敢えて言えばそのような行為は昭和の時代から現在まで「全く見られない光景」だったのかと言えば、それは違うような気もしています。

特に昭和の時代なんて安全意識に関して現在よりもおおらかだったでしょうから、普通の光景とまでは言いませんが、まあ「たまにそんな人も居るな」みたいな感じだったのかも知れないな、とも思います(私の勝手な想像ですが)。

ただ、それであっても、そのような行為は(と言うよりハンドルを握らせる、握らせない以前に膝の上に子供を乗せて運転すること自体が)「根本的にはダメなこと」、すなわち法律的にも道義的(安全面)にも普通に「ダメなこと」なのであって、仮に(それが正しいか間違っているかは別として)いわゆる「親心」で子供を楽しませたいと思ってそのような行為に至ったとしても、それは本当はダメだと分かりながら「こっそり」やるような事柄であるというのが我が国の全国民の「共通認識」なのだろうと個人的には思っていました。

しかしながら現実には、そのような光景を自ら(同乗者が)詳らかに撮影した上で極めて公共性の高い「インターネット」という場にその映像を自ら公開してしまうような人が現実として存在する訳ですから、上で述べた「共通認識」に関する私の考えが間違っているのかも知れませんし、もしくは「悪いこと」だと自認しながらそれを自ら公の場に晒すことに一切の恥を感じない人と言うのも一定数居るということなのかも知れないな、とも改めて思いました。

改めて考えてみると、もっと若い人のケースが主ですが、確かに現代の世の中にはいわゆる「バカッター」と呼ばれるものがあり、それこそコンビニのアイスクリームが売っているケースの中に嬉々として侵入しその様子を撮影した写真をネット上に恥じることなく自らアップしてしまうような人も居る訳ですから、そんな類のものと比べれば自らのクルマで子供を膝の上に乗せて少しハンドルも握らせる程度のことは、危険性など社会的負荷の大きさは別としていわゆる「恥ずかしさ」の観点で言えば大したことが無いと考える人が居ても不思議では無いと言えるのかも知れません。

ただ、そのような人たちが逮捕されたりする為に警察が捜査等に動く為の原資は紛れも無く「税金」なのであって、善良な国民として日々真面目に働き国民の義務として納税する一般庶民の私としては、そのような事柄に税金が費やされているという事実に触れていわゆる「虚しさ」を少なからず感じることもあるというのが偽らざる心情となります。

以上、冒頭で紹介した事案の記事に触れて思ったことを簡単に記させて頂きました。

イメージが大切な俳優さんが未成年に淫行したらダメだろ、と普通に思った話

はじめに

以下の記事を読みました。

headlines.yahoo.co.jp

インターネット上では少し前から話題となっていましてチラッとネットのニュース記事を見たことはあったのですが、なんせ顔も名前も全く知らない方だったのであまり興味もありませんでした。ちなみにこの十年ほどは基本的にテレビを見ない生活をしており、またケーブルテレビで映画は見るのですが普通の邦画はほとんど見ないので、そんな私が知らないだけで世の中的には有名な方なのだろうと思っています。

さて、そんな感じで興味も薄かった私ですが、何故に今回上記記事を取り上げたかと言えば、購読している産経新聞の朝刊の三面に大き目の記事として上記記事が掲載されていたので(一字一句確認してませんが上記ネット記事と紙面の記事は全く同じだと思います)、それを今朝の朝刊で読み「全国紙の三面に載るほど大きな出来事だったんだな」なんて改めて思った為です(警察が動き出したことも関係あるのかも知れませんが)。

と言っても法律的にも芸能的にも何も詳しくない私ですので特に深く何かを論じられる訳ではありませんので、「プロの仕事」という切り口で思ったことを簡単に記します。

「死守」すべき「イメージ」

上の記事もある通りこの俳優さんは無期限の活動休止となったそうですが、それは仕方ないと言うか当たり前と言うか、そのように思う次第です。

何故なら俳優などいわゆる「芸能人」の方は、極度にアウトロー的なイメージであるなど余程特殊な方でもない限り、公序良俗に反していないという意味での「イメージの良さ」は極めて大切な要素だと思うのです。

外見の良さや演技の上手さなどにそのような「イメージ」も加わって、良い意味での「虚像」(一般視聴者の頭の中の世界で輝いている存在)と成りうるからこそ一般人とは比較にならないほど有名になる訳であり、それが故に一般人とは比べ物にならないような所得が得られる、というのが「有名になればなるほど高額な所得が得られる芸能人という仕事」の本質なのだろうと思っています(繰り返しますが例外もあるとは思いますが)。

芸能人の「プロ」の振る舞いとは到底思えない

従って「プロ」の有名人なのであればそのようなイメージは「死守」すべき事柄なのであって、そのような観点から考えれば今回のこの俳優さんの行動というのは極めて軽率であるとしか言いようが無いように思います(いつ何時でも完璧に行動するのは綺麗事であり不可能であったとしても悪い部分は表に出ないように配慮して行動すべきであるし今回の俳優さんの行動にはそのような配慮が全く感じられないというような意味です)。まだ若者と呼ばれるような年齢なのであればまた別なのかも知れませんが「33歳」(よい大人)ということなので尚のことそのように思います。

女性の側がどのような思いでこの俳優さんに近づいたのかは分かりませんが、それがどのような思いであっても本人が上で述べたような「イメージ」を死守すべきという本質は何も変わりませんし、そこを大きく踏み外している以上、活動が無期限休止となり仮に経歴にキズが付くという意味で今後の人気に影響が出てしまっても当たり前であるように思いますし、その部分の責任を負うのは一義的に俳優さん本人なのだろうと思います。

おわりに

私(45歳男性)も仕事は全く異なりますが(設計のような仕事)、フリーランスで一人でやっている身なので「会社のネームバリュー」などの肩書きが後ろ盾としてある訳では全くなく、一義的に「自らの仕事の内容」のみで食って行っている訳であって、そういう立場として「死守」すべき事柄がいくつもありますしそれを踏み外せば信用を失うことになり失業してしまうかも知れないと言うような緊張感は、フリーランスになって既に九年目ですが今でも強く持っています。

そのような立場としての私が思うことを簡単に記させて頂きました。