kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

「嫌々仕事をする」の反対は?

はじめに

親がもの凄くお金持ちで、自分の稼ぎは全く無くても一生食うには困らないとか、そういう特殊なケースは別ですが、普通は人間と言うのは大人になると自ら食っていく為にお金を稼がなければならず、その為に仕事をしなければなりません。

その稼ぎを基に国の為に納税するという側面ももちろん大切なことであるとは思いますが、まずは自分が食っていけないことには話にならない訳で、そういう意味で「食っていく為に稼ぐ」という部分が仕事の一番の目的であるように思いますし、大人であればきとんと自立して食っていけよという意味で大人に課せられた「義務」であると思っています。

どうせお金の為にやっているのだからと割り切って楽しみも感じず必要最小限の時間と労力で仕事をするという考えももちろんアリだと思いますが(価値観は人それぞれの為)、義務として毎日毎日やらなければならない行いであるからこそ、その仕事を好きで楽しく、もっと言えば「時間が経つのを忘れる」くらいに没頭して行えるほうが、幸せな人生なのではないか?と個人的にはそのように考えています。

「嫌々仕事をする」の反対は?

「嫌々仕事をする」の反対は何かと考えれば、「好きなことを仕事にする」と思いつく方が多いのかな、と想像するのですが、もちろんこれは大正解でありながら、実現が比較的難しいことでもあるように思います。

例えば音楽が好きだからと言って、プロのミュージシャンのように才能に恵まれ好きな音楽を作ったり演奏をしたりしながら食っていけるほど稼ぐことが出来る人は本当に稀な存在で、そこまでの才能は無いがやっぱり音楽が好きだからと音楽「業界」の何かの仕事に就いたとして、最終的に出来上がる「音楽」は確かに自分が好きな対象であるかも知れませんが、その途中の過程での「実務」が本人の仕事であるとした時に、その実務が本当に本人の好きなことなのか?と考えると、もちろんそうである場合もあると思いますが、そうでない場合も少なく無いのだろうと思っています。

音楽に限らず何でも同じなのですが、飛びぬけて才能があるような人ではない「普通の人」が、何か好きな対象を一点に(もしくは狭い範囲で)絞って狙い打ちにして「それを仕事にする」という状況を実現するのは、普通に考えると「簡単なことでは無い」ように思うのです。

仕事を「好きになる」ことも出来る

私はある設計の仕事をしていますが(サラリーマンを経て現在はフリーランス九年目)、その設計をしている対象は元々全く興味が無いものでした(新卒サラリーマンとして入社した時に希望と異なる配属となった為)。

しかしながら、希望と異なる配属となったその現実を目にして悲観的になったかと言えば、そんなことはありませんでした。

と言うのも、設計を希望して入社したのに例えば「営業」に配属されたとか、そういう事態であれば悲観的にもなるのでしょうが、「設計」という部分は変わりませんでしたので、その対象が何であっても自分が得意と思っている部分は普通に活かせるかも知れないと思えましたし、まずは頑張ってみようと思ったのです。

そして頑張れば頑張るほどに、技術力が身に付きその仕事の核心に近い部分の仕事を任されるようになりますし、そうなるほどに仕事を楽しいと感じるようになりました。

それと同時に、少し浅はかな考えかも知れませんが、周囲(社内の上司や顧客など)の評価が上がってくるとやっぱり「楽しい」と感じますし、その期待に応える為にもっと頑張ろうというようにモチベーションも上がってきました。

そんな感じで今では(実際に自分が手を動かしている)その分野に関しては知らないことはほとんど無いような「エキスパート」として周囲からは評価されているのですが(従ってフリーランスでも仕事には困らない)、繰り返しますがその分野は学生時代には興味も関心も全く無かった訳です。

更に言えば、元々学生時代から興味があり入社の際に配属を希望した分野のことも、全くの素人の人と比べれば相当に知識はあるのですが、その分野の設計の仕事と現在やっている仕事のどちらが面白いのかと言えば、今になっては圧倒的に「現在の仕事」だと思う訳です。すなわち学生時代に「これが自分に向いているかも」とか「こんな仕事が面白そうだ」みたいな印象と言うのは大した根拠が無い「思い込み」に過ぎなかったということなのだろうと思っています。

ただし一定の「適性」は関係すると思う

上でも少し述べましたが、私は自分自身の性格上、例えば「営業」の仕事が楽しく上手く出来るなんて思えませんし、他にも例えばライターのような文章を書く仕事なども無理だと思います。

逆に「設計」とかそれに類する仕事であれば、どのような業界のどんなジャンルのモノであっても一定の成果は出せたのではないかと(自惚れかも知れませんが)思っています。

そのような根本的な部分の「適性」は誰にでもあると思っていて、そういう部分は踏まえた上で「細かい部分は気にせず与えられた仕事を頑張ってみる」という態度で仕事に臨んできたことが良かったのだろうと今になっては思っています。

ただし好きで楽しいとは言っても仕事は「遊び」とは全くの別物

これは自己反省を込めて記す部分となります。

二十代の時は本当に相当な時間を仕事に費やしていた訳ですが、残業の大半はサービス残業でタダ働きであろうがあまり気にせず長時間働いていた訳ですが、何故にそのようにしていたのかと言えば仕事が好きで楽しく「没頭」している状態だったからだと思います。

しかしながら三十歳の頃に、パニック障害などで結構体調を崩しまして、それは誰がどう考えても「過労」(とそれに伴う不規則な生活)が原因と思われるものでした。

やっぱり好きで楽しいとは言っても「仕事」である訳ですから、「絶対に間違えられない」とか「納期は絶対だ」などのプレッシャーも相当に大きい訳ですし、同じ「没頭」と言っても趣味で遊びで没頭しているのとは質的に大きく異なる訳でして、当たり前ながら心身に対する負荷は大きいのだろうと思います。

幸いなことに、体調は改善しましたし、またそのような時期を経験しても仕事を嫌いになることはありませんでしたので、現在でももちろん一般的な人と比べると労働時間は長いと思いますし一人でやっているフリーランスなのでどうしても「無茶な働き方」になる時期も少なくないのですが、根本的な意識として上で述べたように「好きでやっているとは言っても遊びとは異なる負荷を負っている」ということは意識しながら、息抜きなども考慮するようにしています。

おわりに

以上、私が好きで楽しく仕事をしている点について記してみました。

大学を辞めた「だけ」の人がサラリーマンのことを「つまらない人生」と論じるのは構わないが…

はじめに

はてなブログのトップページには、一年ほど前の「注目記事」が掲載されるコーナーがあります(「ブログタイムマシーン」というコーナー)。

そこで一年ほど前に大注目となった、当時の大学一年生(18歳)が大学を辞めて起業します、と宣言する記事が載っていて、懐かしく見ていました。その後にネットで検索して関連する他者の記事もいくつか読みました。当時の炎上ぶりはもの凄かったと記憶しています。

それらを読んで思ったことを改めて記します。

仕事とは社会に「価値」を提供しながら「収入」も得る行為

当たり前ながら、仕事とは社会に「価値」を提供しながら「収入」も得る行為なのだと思います。

そもそも何か価値を生み出す行為でないとお金が入ってこないので「収入」も得られません。

一般的には(起業家、労働者を問わず)価値を提供すればその対価としてお金が支払われて自分の収入に繋がる訳ですが、「起業」の場合はゼロからのスタートですので、始めてすぐにその価値が消費者に評価されお金に繋がるということは難しいように思います(特に上で述べた大学生のように今までに特に実績が無い人がゼロからスタートする場合)。

従って事業を始める前にアルバイトでも何でもやってお金を貯めて、当面の生活費と事業資金を確保したり、もしくは多くの人が出資や融資をしたくなるような「よく出来た企画」を考えることにより出資等を受けてお金を確保する必要があるのでしょう。

どのような形にしても自力でお金の工面をして、それで事業を起こしてこそ真の意味での「起業」と言えるのだろうと思います。

「お金」を稼ぐ厳しさ

上で述べた大学生の件に限らないのですが、自己資金もなく、多くの人を魅了するというような企画もなく(出資等も得られず)、当面のお金は親からの援助です、みたいな格好である間は、仮に登記を済ませるなど形だけは起業していたとしても、「仕事をしている」とは決して言えない状況のように思います。

いや、例えば親がお金持ちで、自ら稼がなくても親の資金でやっていけるので利益は度外視してでも何かの価値を提供したいとか、もしくは完全に無報酬の場合はボランティアになりますが、そういう形であっても世の中に何かの価値を少しでも届けたいという気持ちやそのような形態自体は否定する気持ちは全くないのですが、それはいわゆる「仕事をしている」という状態では無いと思うのです。

「仕事をする」という行為は必ず「お金を稼ぐ」という結果を伴わなければならない思う訳で、その部分が仕事というものの最も「厳しい」部分の一つなのだろうと思っています。

おわりに

起業家として凄く優秀な方々は学生の間から起業して成功したりしている訳ですが、多くの方々はそのような優秀さがあるとは自分では思えず、しなしながら社会人としては一般的にはお金を稼ぐ必要がありますので、サラリーマン(労働者)として「仕事をする」という道を選ぶ訳ですし、またその道で少しでも自分の能力を活かせるように何かを学んだり、また出来るだけ自分に適した(能力を発揮出来る)会社に入れるように学歴を身に付けたりしている訳で、そこには必ず何がしかの「努力」が伴っているハズです。

起業家として成功している人がそのようなサラリーマンに関して「もっと他の努力をしようよ」などと批判的に論じることに関しては、その資格はあるように思いますし傾聴に値するとも思うのですが、何も成功しておらず自分では大したお金も稼いでいない人が批判的に論じることに関しては、そんな資格は無いだろうと率直に思います。

ただ、日本には言論の自由がありますので、大学を辞めた「だけ」で何もしていない人が、大学で真面目に勉強し就職してサラリーマンとして働くという生き様を「つまらない人生」だと論じても、それは別に構わない訳ですが、それに対して大炎上という形で大きな反感が巻き起こるのは、社会として極めて正常な反応であるように改めて思いました。

【ブログの読者として】 書いている人の立ち位置と、読者である自分の立ち位置はあまり関係無いと思っている

はじめに

私は何年もの間、(場所は転々としていますが)基本的にずっとブログを書いているのですが、同時に誰かのブログを読んでいる「読者」でもあります。私と同じような方(書く者であると同時に読む者でもある方)は少なくないのではないか?と想像する次第です。

さて、時間の制約上、それほど多くのブログを読めている訳では無いのですが、それでも「更新されれば必ず読んでいる」という感じのブログも、その時々で移り変わりはしますが複数あります。

そのようなブログに関しては私は純粋に「熱心な読者」という立場です。すなわち、そのブロガーの方も当方のブログを読んでくれている、というケースもありますが、当方が一方的な「読者」という立場である場合も少なくありません。

書いている人の立ち位置と読者である自分の立ち位置はあまり関係無い

自分と似たような立場の人、似たような結論を持つ人の言説を読むと安心するし心地よい、という感情はあっても不思議ではないように思いますし、私にもあるのかも知れませんが、私に限った話かも知れませんが、一度読み始めてずっと熱心に読み続けてしまうブログと言うのは、「自分とは立ち位置が全く異なる」というものが多いです。

敢えてそのようにしている訳では無いので、もちろん自分と同じような立ち位置だと感じる場合もあるのですが、自然と「読み続けているブログは、自分とは全く立ち位置が異なるものが多くなっている」という感じです。

一つ例を挙げると、私は「高学歴」とは無縁の男でして、両親はどちらも中卒ですし(と言うか父親は中学も最後まで行ってないと言ってました。昭和二十年代の、かなり貧しい鹿児島の山村での話です)、私も大学には行っておりません。そして「学歴」以外の実力勝負で生きてきたという意識も強く、現在の立場も学歴も肩書きも何も無いような一匹狼的なフリーランサーです(現在9年目)。そして息子が一人居ますが(現在小学四年生)、必ずしも高学歴を目指して欲しいとは思っていない訳です(ただし本人が目指したくなった時に学力不足で諦めさせるのは可哀想という意味で学力が低くて良いと思っている訳ではありません)。

しかし自分が「熱心な読者」であるブログは、高学歴の方が書いていて、そして高学歴の優位性を説いているような言説のブログが多いのです(過去のものも含めると一つや二つではありません)。

相手の「思考」に惹かれている

そのようなブログは、書かれているご本人も学生時代に厳しい競争に打ち勝っていて、そのような競争の有意な部分も不毛な部分もリアルに感じながら実際に経験した上で、それをベースに思考が展開されていますので、非常に興味深く感じるのだろうと思います。その思考が展開されている部分に惹かれているのであって、その結果である現在の立ち位置(やっぱり学歴は大切だと結論付けるのか、逆に大して学歴は不要であると結論付けるのか)に関しては、その言説の魅力という点においてはあまり関係が無いのだろうと思っています。

相手の「思考」に影響を受ける、という意味

私は今までの人生において、何か大切な決断をする際に誰かの意見を聞くということをしたことが一度もありません。相談さえせずに全て自分一人で決めています。

例えば独身時代に(今で言う)婚活を始める際に、両親や友人に何かを相談したことは全くありませんでしたし(と言うか話さえしていない)、サラリーマンを辞めてフリーランスになる際に取引先などの関係者に事前に相談したりすることもなく辞表を出してからの事後報告でしたし、「フリーランスのメリット、デメリット」的な記事なども一切読まずに決めている訳です。

では、常日頃に深い話は誰ともしていないかと言えば決してそんなことはなく、例えばサラリーマンの時なら仲の良かった上司などと色んな話をして、そして「なるほど」と思わされるような時も少なくありませんでした。

ただ、それは「だからこうするべき」という結論の部分に「そうだよなぁ」などと思っている訳ではなくて、その結論に至るまでの「思考」の部分に、「なるほど、確かにそのような論理の展開は理にかなっているなぁ」という風に感じていたのだろうと思います。

そして常日頃から、そのような意見(言説)を咀嚼しながら自分の中で思考を繰り返していて、実際に何か大きな決断をする際には常日頃の思考をベースに自ら一人で決断しているのだろうと思います。

ブログも同じ

現在は一人きりのフリーランスですし誰かと喋る機会も少ない訳ですが、その代わりにブログ等の言説を読んで、そういう「思考」の部分に影響を受けているのだろうと思います。

上で述べた「高学歴を是とする」ブログを熱心に読んでいるからと言って、では私が今後「やっぱり学歴は高いほうが良い。息子にも出来るだけ高学歴を目指させよう」という風に自分の考えが変わることは多分無いのだろうと思っているのですが、だからと言ってそれを熱心に読むことが無駄かと言えば、決してそうではないのは今まで述べた通りです。

学歴以外の話で言えば、例えば「部活」に関して、それを真っ向から否定するような意見を最近よく読んでいる複数のブログで見かけたのですが、私自身は息子の部活(ある球技です)に関して、確かに長時間の練習が勉強に与える影響が気になりつつも、その部活を通じて(その球技が上手い下手とは無関係に)人間的に成長している息子の姿を感じていますので、それ(部活)を真っ向から否定する気持ちは全く無いのですが、ではそれらの「真っ向から否定するような意見」を読んで不快に感じるかと言えば、それは全く感じない訳でして、それどころか「なるほどなぁ」と唸ったりしながら学んでいる訳です。

逆に、結果的な立ち位置が自分と同じであるからと言って、例えばサラリーマン時代に特にパッと何かを成し遂げることもなく、「細々なら食べていけます!」的な感じでフリーランスになりました、みたいな言説を読んだところで、最低でも私にとっては心に響くものは何もありません。

おわりに

以上、ブログというものに関して自分が「読者」という立場の視点で記してみました。

私自身もブログを「書く」側ではありますが、上で述べたような優れた言説など全く書けていないのかも知れませんし、またアクセス数としても全然ダメなのですが、今回はまだまだ続けようと思っています。

いつもお読み頂いている皆様、本当に有難う御座います。

結婚するしないとか、子供を持つ持たないとか、それは自分の感性を信じて決めるのが良いと思う

「する」より「しない」という言説のほうが目立つワケ

例えば結婚に関して、結婚したほうが幸せだという言説と、結婚せずに一人で生きたほうが幸せだという言説がありますが、私の勝手な印象では後者の「結婚せずに一人で生きたほうが幸せだ」という言説のほうが目立っていて分かりやすいという印象があります。

今までの世の中が「結婚するのが当たり前」であったが故に、それを追認する言説よりも「今からの時代は違う」と意義を唱える言説のほうが目立って当たり前のようにも思いますし、また「結婚派」の幸せの内容と言うのは数値化出来ないものが多い(例えば子供を持つって幸せだと言っても持たない場合と比較する数値が無い)のに対して、「一人派」の言説というのは時間やお金という面での「コスパ」を数値化して説明しやすいので、説得力がある(ように見える)、という側面もあるのだろうと思っています。

例えば「子供は持たない派」が「子供を持ったら一人を育てるのに大学まで出したら2500万円かかるんですよ!二人持ったら5000万円です。子供を持った瞬間からその金額を『負債』として抱えて生きていくということなんですよ!」という説明には、誰でもその大変さを想像出来るという「分かりやすさ」があるのだと思っています。

一方で実際に子供を持っている人が「本当に幸せです」と幸せを感じる部分を色々と書いてみたところで、その他の子持ちの人に対しては「そうなんだよなぁ」と共感されることは往々にしてある訳ですが、一番意見を伝えたい「まだ子供が居ない人=これから子供を持つかも知れない人」に対しては実感としては伝わりづらい、という特色があるのだろうと思います。

コスパが全てか?

しかしながら、普通に考えれば、例えば自分にとって時間的に最も無駄が無い生活と言うのは、周囲がみなロボットで、自分は全く何も動かなくても自分に必要なモノ、サービスは周囲のロボットたちが全て提供してくれる社会なのですが、それって楽しいの?と考えると、それは決して楽しく無さそうです。

やっぱり人間ですから、例えば友人と食事を楽しむ為に時間を割き、またそういう場を設ける為に余分にお金を使い、そしてその余分なお金を稼ぐ為に余分に働く訳であり、それらは「自分が生物的に生きていくための最低限の生産活動」という観点においては「ムダ」以外の何物でもない訳ですが、そういう部分に人間として生きる上での幸福感なり充実感を感じるものなのだろうと思うのです。

そして結婚生活に幸せを感じる人と言うのは、配偶者や子供と生きるために、一人で生きる場合と比べて「余分」な時間やお金を割きながらも、それ以上の幸福感なり充実感を感じながら生きているのだという単純な話であり、そしてその度合いは決して数値化出来るようなものではないというのは自明の理であるように思います。

煽り気味の言説に惑わされることなく自分の心に耳を傾ける

私がここで言いたいのは、「だから皆、結婚するべし。子供を持つべし」と言いたい訳ではありません。「人間一人では生きていけない」という点は皆同じであったとしても、他者との繋がりを求める相手が「家族」(結婚)である人も居れば、色んな事情から「家族というものにだけは縛られたくない」と考える人も居るでしょうし、両方居て当然なのだろうと思っています。

どちらにしても、自分が何を求めていて、どのようなものに幸福感なり充実感を感じるのかという部分に正直になって、「分かりやすい(特に煽り気味の)言説」に惑わされることなく、数値化出来ない自らの「人間の心」にも耳を傾けながら物事を決めていくのが大切だと思う、という点が今回言いたいことになります。

「失敗」の後悔と、「チャレンジしなかった」後悔

特に結婚「する」とか子供を「持つ」という場合は、「する」「持つ」と決めるよりも「しない」「持たない」と決めるほうが現状維持であるという意味でラクである場合が大半であるように思います。「する」「持つ」と言うのは今までの現状を大きく変えるという意味でチャレンジなのであって「しない」「持たない」場合よりも大きな決断を要する場合が大半だろうと思う、という意味です。

結婚に関してなら少なくない離婚件数が毎年毎年ある訳ですから、統計的に言えば「チャレンジして失敗する」確率は確実にゼロではない事柄であるというのは紛れも無い事実です。

そのようなものに「チャレンジして失敗する」リスクはもちろんある訳ですが、特に結婚や子供を持つかなど年齢が大きく関わるものに関しては「チャレンジせずに後になって後悔する」というリスクも決して小さく無い訳です。

そのような部分も踏まえながら、自らの「人間の心」にも耳を傾けながら物事を決めていくのが大切ではないかと改めて思いました。

おわりに

私は結婚や子供に関しては現状(既婚で子供が一人居る)に幸せに感じている訳なので、結婚しないとか子供は不要という内容の目立っている言説というのは自分と「反対派」として見えています。

しかしながら、それは自分の現状と「反対派」であるから目に付くという話では無いのだろうと自分では確信的に思っています。

何故なら、例えば仕事に関して私は普通のサラリーマンではなく一人でフリーランスでやっている訳でして(現在九年目)、世の中の「会社なんてやめてしまえ!一人で何やっても食っていける」とか「これからは就職ではなく起業の時代!」みたいな煽り気味の言説を見ると、結果としての自分の現状としては「同じ立場」なのですが、やっぱりそういう言説には違和感を覚える為です。

すなわち、私は現在の自分と同じ立ち位置か反対かに関わらず、無責任に他人に人生の選択を煽り気味に勧めているように感じる言説に違和感を感じているのだろうと思います。

そして当然ながら、現在の自分と同じ立ち位置か反対かに関わらず「確かにその通りかも」と感心させられる言説もあります(これに関してはまた機会があれば改めて書きたいと思います)。

以上、つい先ほど結婚関連に関する煽り気味に感じた記事を読んだのですが、それで改めて思ったことを記しました。

取り放題のネギなどの薬味を真の意味の「取り放題」とは私は考えない訳

はじめに

以下の記事を読みました。

headlines.yahoo.co.jp

上記記事から問題の概要を以下に引用します。

最近増えている飲食店での「無料盛り放題サービス」。うどん屋さんのネギや、牛丼屋さんの紅しょうがなど、薬味や調味料がセルフで取れるよう置いてあり、自分の好きな薬味を好きなだけ盛れるというありがたいサービスです。とはいえ、メインはうどんや牛丼。薬味はそれを彩る程度のものである、というのが多くの人の意見なはず。ですが中には、常識を超え、山のように盛る「ヤマモラー」がいるようです。

どの程度の量から「取りすぎ」なのかは人それぞれの感性により様々に分かれるのでしょうし、それは決して答えの出ない問題なのだろうと思います。

ただ、人間として生きていく上での基本思想として以下の二つに大別することは出来ると思います。

・いくらお店が取り放題と言っているからと言っても「限度」があるはずで、真の意味で「どれだけ取っても良い」なんて有り得ない。

・お店が「どれだけ取っても良い(=限度量が明示されていない)」と言っている以上はどれだけ取っても個人の自由である。

私が『真の意味で「どれだけ取っても良い」なんて有り得ない』と考える訳

私は上記で述べた前者の立場なのですが、何故にそのように考えるのかを改めて考えてみました。

浅ましいと感じるから

お店側が「取り放題なのでどれだけ取っても良いですよ」と言っているからと言って、その分のお金を支払っている訳ではない薬味等で腹が一杯になるほど食べるという姿は、私の個人的な感性では「浅ましい」と感じます。

そして私は全ての事柄において完璧に実践出来ているか否かは別として、浅ましい人間にはなりたくないと考えていますので、今回の問題に関しても「どれだけ取っても良い」とは考えないのだろうと思います。

人の「おこぼれ」ではなく自分のお金で食べたい

冒頭で述べた記事から以下の囲みに引用します。 

「ネギが盛り放題のうどん屋さんで、うどんを頼まずにおにぎりのみを頼んでいるお客さんがいました。それは別に良いと思うのですが、うどんを食べないのに小皿にネギと天かすをものすごくたくさん盛ってたんです。醤油をかけておにぎりと一緒に食べてました。その量もかなりのもので……うどん屋さんなのに、おにぎりと盛り放題の薬味だけでお腹いっぱいにするのって、どうなんですかね」(40代・女性)

上記のような行為に対する、あるお店側の回答は以下の囲みの通りです。

――そうなんですね……! では、うどんを食べないで、おにぎりや天ぷらだけ頼んで、別にネギだけもしゃもしゃ食べるのはどうでしょう!?

「もちろん問題ありません。どのような形でも楽しんでいただければと思います」

と言う訳で、最低でも上で引用したお店ではこのような食べ方で薬味をどれだけ食べても「良い」ことになっています。従って『お店が「どれだけ取っても良い(=限度量が明示されていない)」と言っている以上はどれだけ取っても個人の自由である』と考える人であれば上記のような行動を当たり前のように行うのでしょう。

さて、極めて当たり前の話なのですが、薬味等を取り放題としているお店のお客さんの100%全てが皆、「100円程度のおにぎりだけ買って、後は吐く寸前まで薬味を食べ続ける」という行為を行えば、お店の収支の問題でそのお店はやっていけないでしょう。

すなわち、自分がおにぎりだけ頼んで後は薬味で腹を満たすという行為を支えているのは、「取り放題なんて言っても薬味なんてちょっとしか食べない」という圧倒的多数の自分以外のお客さんの支払っている料金と言えます。

平たく言えば「普通に常識的な食べ方をして常識的な料金を支払っているお客さんの『おこぼれ』を頂戴している」という状態だと個人的には思う訳です。

従って諸般の事情により餓死寸前であるとか、そういう状況であればまた別なのかも知れませんが、現在の私は幸いにしてそのような状況ではありませんので、『いくらお店が取り放題と言っているからと言って「限度」があるはずで、真の意味で「どれだけ取っても良い」なんて有り得ない』と考え普通に料金を支払っているのだろうと思います。

おまけ:「食べ放題」のお店は全く別物

余談ですが、焼肉などでよくある「食べ放題」のお店では、節度など考えずにいくら食べても良いと思っています。

何故なら、単品で何かを頼むよりも基本的に高価な料金を支払いますし、また過半のお客さんがお店がやっていけなくなるほど食べることが出来ないような「制限時間」が設けられている為です。

なお、そうであっても「取った物は全て食べる(テーブルに残り物を残して帰らない)」のは当たり前の話かと思います。

おわりに

以上、取り放題のネギなどの薬味を真の意味の「取り放題」とは私は考えない訳を記しました。