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kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの男です。色々と思ったことを記します。

「ドロボーをしてしまった警察官」の意味を改めて考えた

以下の記事を読みました。

news.livedoor.com

この手の記事を読んでいつも思うのは、「ここまでやっても、懲戒免職にはならないのか」ということです。今回も記事には『停職3月の処分』と記されています。その後に『同日付で退職した』とも記されていますが、処分はあくまで停職にとどまり退職は自主的なものであるようです(その他の記事で確認しました)。

以下、上で述べた「ここまでやっても」の意味を改めて述べます。

警察という存在は、現実的には色んな立場の警察官が様々な内容の仕事をしているのだとは思いますが、極限まで平たい表現をすれば、警察官は「ドロボーを捕まえる立場の人」なのだと私は思っています。

そして、今回のような案件は「着服」と呼ばれ、似たようなものに「横領」などもありますが、これも結局は「他人のお金を盗んでいる」訳なので、その行為に及んだ人間のことを昔ながらの簡単な表現で言えば普通に「ドロボー」なのだと思うのです。

従って今回のような案件は、「ドロボーを捕まえる立場の人」(警察官)が自ら「ドロボー」をしてしまったという話なのであり、これって「決定的に、一番ダメなこと」だと単純に思う訳です。これが私が「ここまでやっても、懲戒免職にはならないのか」と素朴に疑問に思う理由となります。

まあ、何となくの想像ですが、細かな内規などがあってそれに従えば半ば自動的に『停職3月の処分』と決まってしまう、というような話なのだろうとは思うのですが、やっぱり警察組織とは全く無関係の一般庶民である私から見れば、「ドロボーをしてしまった警察官」が懲戒免職にならないという事実は素朴に「不思議だ」と感じる次第です。

夫婦円満のコツ ~私の場合~ 

はじめに

私(45歳男性)は妻と知り合い結婚してから十五年近くになりますが、大きなケンカなども無く夫婦円満で過ごせているほうだと思います。

元々の相性が悪くないという理由が最も大きいのかも知れませんが、全く何も考えていないという訳でもなく、少しは気を付けている点もあります。

今回はそれを簡単に述べたいと思います。

1.会話をたくさんする・本音で話す

これは「気を付けている」というより、フリーランスでずっと自宅に居る関係で話す機会も自然と多くなりますし、またお互いの性格上、自然と「本音を言い合う」感じになっているのだと思いますが、それは夫婦円満で過ごす上ではプラスになっていると思います。

例えば近年なら息子(現在小学四年生)の教育方針などでは意見が食い違ったりして激論みたいになることも少なくありませんが、その後にどちらかが機嫌が悪くなるみたいな感じで後を引くような感じも全くありませんし(ケンカしている訳ではなく議論をしている訳なので当たり前と言えば当たり前ですが)、そうやってすり合わせをして決めた方針には夫婦二人で納得してそれに従ってやっていってますので、最低でも私たち夫婦に限って言えば、意見が合わない部分を曖昧にして何となくやり過ごすよりかは、現在のようにお互いに本音で言い合ってすり合わせしているスタイルのほうが良いように感じています。

2.「怒り」をいつまでも引きずらない

上で述べた「議論」の時だけではなく、もっと些細な日常会話の時も含めた話なのですが、たまに「そんな言い方、さすがに酷いだろう!」と私が思ってしまうような物の言い方を妻がする時があります(日常茶飯事という訳ではありませんが、めちゃくちゃ珍しいという訳でもありません)。

私は元々それほど「出来た人間」という訳でもありませんので、ムカッとしてしまう時もあるのですが、これは新婚当初から今でも「意識して」気を付けていることですが、その時にムカッとしてしまうのは仕方がないとして、「いつまでも引きずらない」ということを意識しています。

そういうことがあっても、例えば一時間後の会話の際は普通に喋って、その前にムカッとしたことを敢えて取り上げ「あんな言い方してたら、いつか逃亡するで」くらいの冗談を言うことによって笑って流し去ってしまう感じです。そして最後に笑って終わるからだと思いますが、そのような日常にストレスに感じることもありません。

そうすることによって、いわゆる「夫婦喧嘩をしている」という期間が生じないように意識していますし、実際に「ほとんど口を利かずに過ごした」という経験は今までに一度だけ(新婚の頃)、そういう状態で夜を一夜だけ過ごしたことがあっただけで、それ以外は記憶にありません。

ちなみに、もちろん私のほうが言い方が悪くて妻のほうがムカッとするような時もあるのですが(当方からしたら「しまった、雰囲気が悪くなった」と感じる)、妻のほうもそれを引きずることはありません(妻の場合は意識しているというより、元々がそういう性格なのかも知れません(ようは私より人間が出来ていると思います))。

3.隠し事はしない

杓子定規に「何でもかんでも話す」という意味ではなく、もちろん「どーでも良いので別に話す必要も無い」から話さないこともあるのですが(例えば夜中に一人でユーチューブを見ているのに何を見ているか等)、いわゆる「大事な話」に関して隠し事はありません。

例えば夫婦によっては「財布は別で、お互いの収入も正確には知らない」というケースもあるようですが、ウチに(と言うか私に)限って言えばそれは「有り得ない」ことでして、稼いだお金は全て妻に渡した上で(と言うよりフリーランスでやっている仕事の売掛金が振り込まれる口座のカードや通帳自体を全て妻に渡しています)、自分に必要なお金はそこから貰うことが「当たり前」という感覚です。

例えばクルマのタイヤを交換する時なら、今の時代はかなり安価なタイヤもあるのですが、その部分には私はこだわりがありますので、「安いタイヤは半分くらいの値段しかしないけど、そこは譲れないのでこのタイヤにする」と全て話した上で、必要なお金を貰います。

お金以外の話なら、例えば取引先の人などと飲みに行く際には、必ず「誰とどこで飲んでいるか」を報告して出掛けていまして、すなわち「妻が知らない、私の外での行動」というのは一切ありません。

これも「気を付けている」というよりかは、私が自分の性格上、自然とそうしてしまっているという話ですが、後から思えば「夫婦円満に関してプラスに働いているのだろう」と率直に思います。

4.お互いがお互いの親を大事に思う

これは結婚した当初は結構意識しました。特に私の両親は私たちと同じ大阪に居る訳ですが、妻の両親は広島という「遠方」に居る訳ですから、大事に思うより何よりまずは「疎遠にならないように」とかなり意識しました。

確か子供が出来る前と、出来てからも小学校に上がるまでは、GWやお盆、正月だけに限らず普通の週末なども含めて年に八回程度(平均したら一ヵ月半に一回程度)は「帰省」していたと思います(どうしても仕事が忙しいときは妻と息子の二人という時もありましたが、原則的には私も一緒に帰省していました)。ちなみに息子が通っていた幼稚園は「旅行や帰省の際はそれを優先して幼稚園は休ませて下さい」という方針でしたので、その通りとしていました。

さすがに小学校に上がると帰省の為に「学校を休ませる」という訳にはいきませんので、かなり頻度も落ちてしまったのですが、尚のこと帰れる時に多く帰っておいて良かったな、とそのように思っています。

別にそれがあったからという訳では無いと思いますが、妻のほうも私の両親にはよくしてくれています。当初は私たちと両親は大阪どうしとは言えそこそこ離れた場所に住んでいましたが(クルマで片道一時間弱)、途中で両親が我が家の近所(徒歩圏)に引っ越してきたのですが、その事実がそれを物語っているのだろうと思っていまして、妻には非常に感謝しています。

そのような「お互いがお互いの親を大事に思う」という部分は、私たち夫婦に限って言えば「夫婦円満」に資するものであるように感じています。

おわりに

以上、私の場合の「夫婦円満のコツ」に関して記させて頂きました。

若者の交通事故 「若気の至り」は分かるけれど

はじめに

若者がクルマに複数乗り合ってドライブ中に大きな死傷事故(ドライバーや同乗者が死傷してしまった自損事故)を起こしてしまったというニュース記事をしばしば目にします。最近も続けて何件か目にしました。

道路脇の斜面に乗り上げて横転したり、電柱やガードレールに激突したり、そして同乗者が車外に放り出されたり、そのような類の事故です。

杓子定規に全ての交通法規を守れ、というのは老若を問わず綺麗事なのかも知れませんが、そこまで極論で無くとも、「もう少しスピードを落としていたら」とか、「せめてシートベルトさえ装着していたら」とか、そのような類の「たったそれだけ」のことでも救われる命は少なからずあるのだろうと確信する次第です。

私の実体験

私自身も免許を取得して一年未満の「若者」の頃(20歳の頃)に、大きな自損事故を起こしたことがあります。

制限速度が50キロの片側1車線(対面2車線)の国道の山道で、真夜中に50キロ+αで軽く流していたら、後ろからタクシーが急接近してきて、いわゆる「煽られる」格好となりました。何十秒かしてカッとなった私はアクセルを床まで踏み込み、スピードが100キロほど出たところでかなり急な右カーブが現れてしまいました。

曲がりきれず左側のガードレールに激突して横転し、クルマが逆さまのまま路面を滑っていって対向車線を跨ぎ反対側のガードレールに到着し、それに激突して逆さまのまま停車しました。なお、途中から気を失っていたので、クルマが停車していた位置や状況により「後から考えれば」という記述となります。ちなみにクルマは乗用タイプの軽自動車でした。

助手席には友人が乗っていましたが、幸いなことに友人も私も、命に別状は無く後遺症などもありませんでした。なお、友人は頭を数針縫う怪我をして、また私は耳がちぎれそうになっていたので頭と耳を合わせて二十針近く縫っており耳の形も少し曲がっていますので、それほど小さな怪我で済んだという訳ではありませんが、二人とも「命に別状は無く後遺症など無かった」訳であり、これは非常に運が良かったのだと当時も今もそのように思っています。

もし、例えば逆さまで滑っていっている時に対向車が来ていたりとか、もしくは最終的にガードレールで止まりきれずに崖下に転落していたりとか、「もう少しだけでも運が悪ければ」普通に死んでいたのだろうと今でも思っています。

百パーセント自分の責任

タクシーに煽られなければ、と言うのは言い訳なのであって、責任は百パーセント自分にあるのだと思っています。何故なら煽られるのが嫌ならば、横に避けてタクシーに先に行ってもらえば良いだけの話だからです。真夜中で交通量も少なかったでしょうから、避けれそうな箇所はいくらでもあったハズです。しかしそうせずに「カッとなり」アクセルを踏み込んだ訳ですから、百パーセント自分の責任である訳で、それは「歳を取った今だから思える」という類の話ではなく、若かった当時からその通りに思っていました。

そこで心を入れ替えたので、それ以降は無事故なのですが、もしその時に死んでしまっていたら「心を入れ替える」も何も無い訳で、また死ななくても大きな後遺症が残ったり、もしくは友人を死なせたりしていれば、かなり深い後悔を抱きながら生きていくことになったのだろうと思います。

そうならずに済んだのは、自分の力などは全く関係無いのであって、百パーセント「たまたま運が良かっただけ」なのだろうと、当時から今でもそのように思っています。

おわりに ~「若気の至り」は分かるけれど~

そんな実体験があるが故に、若者が「若気の至り」で危険な運転に及んでしまう気持ちは、全く分からない訳ではありません。

ただ、自分の人生を振り返った時、もちろん若者の時分もその時なりに楽しかったですが、それから歳を重ねるごとに、仕事が充実し、結婚して子供が出来て、非常に充実感を感じながら人生を送っている現状を考えた時、その「充実感を感じる対象」のほとんどは「20歳の頃に事故を起こしてしまった」後から手に入れている訳です。

すなわち、もしもその事故の際に「万が一」のことがあれば、現在の幸せな生活が無かったのだろうと考えた時、現在「若者」の人たちに対しては、「若気の至り」は分かるのだけれど、それでも何とか踏みとどまって、自分自身や同乗者の「命」を大切にして欲しいなと、そのように切に願う次第です。

「普通」と「変わり者」の狭間で生きる自分を考察してみた

はじめに

日常会話の中で、つい使ってしまう言葉に「普通」という言葉があります。

「普通は、そんなことしないだろう」とか、

「それは別に普通のことだろう」とか、

そんな風に使います。

が、そもそも論として、その「普通」という言葉を使っている人の価値観なり考え方が世の中において「平均的」なのであれば、その人が言う「普通」の内容は世の中でも「普通」なのでしょうが、その人自身が「変わり者」なのであれば、その人が言う「普通」は世の中では「普通」でない可能性があります。

そのような観点から自分のことを考えた時、自ら「普通は」と発した内容が世の中においても「普通」なのか否なのか、もしくはそもそも自分自身は(どちらかと言えば)「普通の人」なのか、それとも「変わり者」なのか、そのようなことを考える時があります。

その辺りのことを今回は記したいと思います。

自分がどちらかと言えば「変わり者」だと思う理由

私は自分では自分のことを、どちらかと言えば「変わり者」なのだろうな、という風に思っているのですが、何故にそのように考えるのかと言えば、テレビとかインターネット等で聞く「特別な話」ではなく、実生活でのいわゆる「身近な話」として考えた場合に、「自分と同じようなケースをほとんど聞いたことが無い」ということが、あまりに多い為です。

例えば仕事ならフリーランスで一人きりで仕事をしていますが(現在九年目です)、今時「珍しい存在」では無いのかも知れませんが身近な例では聞いたことがありません。

また結婚なら、妻との出会いが「出会い系サイト」でして、これも今時は珍しくないのかも知れませんが身近な例ではほとんど聞いたことがありませんし(サラリーマン時代に噂話的に一回だけ聞いたことがある)、かつ「出会って十日ほどで同棲して三ヶ月ほどで結婚」したのですが(いわゆるスピード婚)、そんなケースもリアルな話では聞いたことがありません。

以上、人生の重要な事柄である「仕事」と「結婚」を見てみてもそんな感じなのですが、もっと些細なことをいくつか書くと、例えばサラリーマン時代、いわゆるホワイトカラーの仕事(デスクワークでの設計)で当時は老若問わず皆が皆ネクタイをしていましたが(今から25年~15年ほど前の話です)、私は一人でノーネクタイで通していました(客先に行くときだけネクタイを締める)。理由は単純に「面倒だから」で、最初の内は上司とか先輩に「ネクタイしないのか?」などと聞かれることがありましたが「別にネクタイを締める為に働いている訳では無いので」くらいの返答は平気でしてましたし、仕事の実力を付けたら何も言われなくなるハズだし言われないくらいの力を身に付けよう、みたいな考え方でした(現に暫くして言われなくなった)。

他にもクルマ関連なら、乗っている愛車はいまだにMT(マニュアル)車ですし(滅多に見ない存在となって二十年程度経っていると思います)、カーナビも低価格化して普及してかなり長いと思いますが、今まで愛車に装着した経験は一度もありません。理由は「行き先を機械にゴチャゴチャ言われるのが嫌だから」という単純な理由です。

他にも書ききれないほど多数のことがあるのですが、これだけ「自分以外で同じような人を周囲でリアルに見聞きすることって、あまり無いよなぁ」という項目がいくつもある訳ですから、どちらかと言えば「変わり者」なのだろうなと自ら感じるのだと思います。

しかし「世俗離れ」している訳ではない

しかしながら、いわゆる「世俗離れ」しているという訳では無いとも思っています。

サラリーマン時代の話なら、上記のように社内での格好や態度は(今から思えば我ながら考えても)問題があったのでしょうが、これが客先に行く時などは逆にキチッとしてまして、その理由も単純で上司や先輩に媚びることは自分の仕事ではありませんが「お客さんに不快な思いをさせない」のは完全に「自分の仕事の一つ」ですので、キチッとした格好や態度で接していました。そして客先の評判は常に高めでした(別に格好や態度が評価されている訳ではなく設計の仕事の内容が評価されていたのですが)。

ただ、ではどのような態度で接すれば「最低限、相手に不快感を与えないのだろうか」という部分は自らの感性(すなわち「普通」とは何か)で判断し決めていた訳ですので、十年近く勤めてましたのでかなりの人数の相手と接しているのですが大きなトラブル等は起こさなかったことを考えると、そういう部分の「普通」に関する私の感性は、世間一般からそれほど大きくズレてはいないのだろうと今更ながら思います。

その後、小さな事務所勤務を経て最終的にはフリーランスになり現在に至りますが、それ以降の客先(取引先)に関しても、もちろん「この相手とは縁を切る」と自ら思って(恐らく相手も思っている)縁を切ったようなケースはありますが、自分の振る舞いや態度等に問題があり知らない間に「相手から縁を切られた」みたいなケースは今までに一度もありませんし、それは私が自由気ままに振舞っている訳ではなく(と言ってもそれほど我慢などをしている訳ではなくむしろ言いたいことは結構言うタイプであるとも思いますが)、やっぱり「普通」はこの一線を超えたらいけないのだろうと自制するようなことは日々ありますので、フリーランスになってからは全てが自分の裁量で自己決定しながらそのような振る舞いをしてきた上で、客先とのトラブルも無い訳ですから、やっぱり「普通」に関する私の感性は、世間一般からそれほど大きくズレてはいないのだろうと改めて思うのでした。

以上は「仕事」に関する話ですが、他には例えば結婚してからの妻側の両親や兄弟との付き合いに関しても、もしくは子供が出来てからの近所付き合いに関しても、それこそ「普通」を意識してに自らの振る舞い方は考えますし、そしてトラブルのような事態に陥ったことは一度もありません。

「普通」と「変わり者」の狭間で

と言う訳で、今回の自己分析の結果をまとめると、私という人間は、

「世間における常識とか普通などの内容の把握は、最低でも実生活において大きな問題が起こらない程度に行える程度の感性は十分に有するが、好き嫌いで言えば世間の常識なり普通とはズレたものを好むことも多く、そして誰かに迷惑を掛けない限りは自己責任で好きなものを求めながら生きてきた」

ということなのかな、と改めて思いました。

ここで言う「迷惑を掛けない」というのは、例えば仕事に関してなら、直接的に誰かに迷惑を掛けないというだけでなく、例えば失業して仕事を失って稼ぎが無くなるような事態に陥ることも色んな意味で色んな人に迷惑を掛けることになりますので(路頭に迷うという意味で家族に迷惑を掛けますし、また納税できないという意味では社会に迷惑も掛ける)、そういう事柄に関しては失業などしないように接客態度などは色々と「自制」しているのだと思います。

逆に、例えばフリーランスになる程度の話なら、最低でも自分に限って言えば普通に家族を食べさせて普通に納税する程度であれば普通に稼げる自信が30歳を過ぎた頃には確信的に有していたので、「世の中の普通の人ならどうするのだろうか」みたいな悩みは全く抱かずに思い立ったら即断的に独立したのだろうと思います。

仕事以外にも、例えば結婚なら妻と出会い「この人となら上手く行くだろう」と確信的に思ってスピード結婚した訳ですが、これも世間一般より期間が早かろうが誰にも迷惑を掛けるような話では無いので、自分の確信に正直に即断的に動いたのだろうと思います。

おわりに

特に仕事に関しては、サラリーマン時代の社内での振舞いとか(今から思えば自分でも間違った態度(いわゆる若気の至り)と感じる部分もあります)、最終的にはフリーランスになり自宅で快適に仕事をしていたりとか、結構自由気ままに振舞っているほうだと思います。

ただ、その「自らの自由」を担保する為に、「圧倒的な本業(設計の仕事)の技術力を身に付けてきた」こともまた事実であり、そしてそれを身に付ける為に人一倍多くの時間を仕事に費やしてきたこともまた事実です。

更には自由に振舞えば振舞うほど「失敗した時に後が無い」という意味での自らの責任も大きくなるように思いますので、私の歩んでいる人生は自ら「楽(たの)しい人生である」とは思っていますが、「楽(ラク)な人生」とは決定的に違うと、自分ではそのように思っています。

ブログを読んでいてガッカリしたこと あるある3選(私が勝手に思う、あるあるです)

はじめに

私(45歳男性)は長年ずっとブログを書いていますが、同時に「読み手」でもあります。と言いますか、自分が「書く」記事数と「読む」記事数を比べれば、「読む」ほうが圧倒的に多い訳です。

と言う訳で、「書き手」としての自分のことは棚に上げ(苦笑)、あくまで一人の「読み手」として「ガッカリしたこと あるある3選」を以下に記したいと思います。

なお、普段は時間的な制約から新着ブログはあまり読まずに購読している決まった方のブログを読むことが多いので以下のようなことはあまり思わないのですが、最近は病気療養(現在は大きな手術をして退院してきたばかりです)の関係で仕事を休んでいるので普段と比べると時間に非常に余裕がありますので、はてなブログの「新着エントリー」から見知らぬブログを読むことが多いのですが、一週間ほどそれを続けていて改めて気付いた内容となります。

1.ブログ本文が途中で途切れている

タイトルが一覧として並んでいる画面から「これは面白そうだ」とタイトルを見て読むブログを決める訳ですが(これは、はてなブログの新着エントリーに限らず、ほとんどのケースでそうだと思います)、それでタイトルをクリックし本文を読み始めると、明らかに「尻切れトンボ」で終わっているものがあります。酷い場合はタイトルだけで「本文は全く何も無かった」ということも…。

恐らく後で書き足すのでしょうし、そのブログの「定期購読者」なら「また後で読めば良いか」となるのかも知れませんが、通りすがりの私としては非常にガッカリした気持ちで通り過ぎることになるのでした。

2.何に対して怒っているのか分からない

上の見出しでは「怒っているのか」と書きましたが、怒りでも喜びでも同じことなのですが、例えば「あなた、それはいくら何でも失礼でしょう」みたいな感じで延々と感情の記述が書いてあって、誰にどのようなことをされたのか途中で概要だけでも出てくるのだろうと思って読み進めていると、そのような記述はついに出てこなくて、延々と相手に対する感情の記述が述べ続けられそれで終わっているケースがあります。

いや、書いている本人の「抑え切れない感情の吐露」ということだと思いますし、もしかしたら定期購読者であれば流れで何か分かるのかも知れませんが(ただしそのような記述も一切ありませんが)、通りすがりの私としては「さっぱり意味が分からない」という意味で非常にガッカリして通り過ぎるのでした。

3.事実の報告のみで「気持ち」の部分が一切無い

これは非常に短文のケースが多いのですが、例えば「○○ラーメンを食べてきた!」とか、「今から出勤!」とか、そういう事実を報告しているだけで、それに対して「美味しかった」とか「一日頑張ろう」などの「気持ち」の部分が一切無いというケースがあります。

単なる事実の報告でも、例えば誰でも知っている有名人に会ったとか、そのような内容なら分かるのですが、「○○ラーメンを食べてきた!」とか「今から出勤!」などの内容の「事実」のみが述べられていても、全く見ず知らずの通りすがりの読者である私にとっては、何も感じることが無いという意味で、非常にガッカリして通り過ぎるのでした。

以上、「ガッカリしたこと あるある3選」でした。

「読みたくなければ読まなければ良い」の難しさ

読み手でもあり書き手でもある私ですが、私の考えは基本的に「読みたくない人は読まないでくれ」というスタンスです。すなわち、例えば他人のブログの内容に対して、明らかに公序良俗に反している等ではなく普通の範疇の内容なのに「私は非常に不快に感じました!」などとコメント欄で意見表明している人を見ていると、第三者として見ていても「無料で読んでいる個人のブログなんだから、不快なら読まなければ良いのにな」と率直に思う訳です。

ただし難しいなと思うのは、グーグルなどの検索画面でも、もしくははてなブログの新着エントリーでも、何でも基本は同じだと思いますが、ブログ記事をアップロードするということは、すなわち検索一覧なり新着一覧の「一つの欄」を占有するということに他ならない訳で、読者側からすればそれを見てタイトルは分かりますが中身(本文)までは読めない訳ですから、その内容が例えば「明らかにタイトルと本文の内容が合っていない」など明らかに読者にとって不利益であるものであれば、読者にとってはそのタイトルが増えることにより「他の普通の記事たち」にたどり着く可能性が減る訳ですから、そういう意味では「記事をアップロードする」という行為に関して何でもかんでも「読みたくない人は読まないでくれ」が通用する訳では無いのだろうと改めて思いました。

そして上で述べた、私が感じた「ガッカリしたこと あるある3選」は、いずれもそのような部分に起因しているのだと思います。すなわち、内容の賛否の問題では全く関係なくて、そもそも「内容や書き手の思いなどが完全に把握出来ない」部分にガッカリしているのだと思いますし、もっと言えば「そんな内容を、下書き等ではなく、普通にアップロードするのか…」というような思いを抱いているのだろうと思います。

おわりに

「定期購読者」か「通りすがりの読者」かで受け止め方が変わってくる場合もあるとは思いますが、私としては、検索画面や一覧画面に「表示されない」と敢えて設定していない以上は、例えば検索順位がどれだけ下位であっても検索一覧に表示される可能性があることは「間違いの無い事実」である訳ですから、通りすがりの人に対しても内容が把握出来るように記述することが基本であると思っています。

特に私のこのブログの場合は、PV数はかなり少ないほうだとは思いますが、流入元としては「グーグル検索」と「ヤフー検索」の合計で約九割となっているので、尚のこと「通りすがりの(初めてこのブログを読まれる)方に対しても、きちんと内容が伝わるように」心掛けなければならないと改めて思いました。

と言っても「完璧」は色んな意味で無理(不可能)だとは思いますが、「以前から読まれている方でないと、初めての方なら全く意味が分からない」というような事態には陥らないように、まずは気を付けたいと改めて思いました。