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kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

「昔取った杵柄」である「将棋」

自分が小さな頃に、けっこう一生懸命やったにも関わらずあまり上達しなかったものに「野球」と「将棋」があります。

「将棋」に関しては、私の父親が凄く強い人で、私が子供の頃は単に「強い人」だったのですが、父親が五十代の頃に「どれだけ強いか試してみよう」と段級を取得しようと本人が思い立ち試してみたところ、あまり労せずして二段を取得していましたので、素人としては相当強いのだと思います。

そんな父親だったので、私も小学生の頃に将棋を教えられ、小学校の部活も将棋部に入っていましたし、本を読みながら詰め将棋もしょっちゅうやっていたのですが、大して強くなりませんでした。もちろん父親に勝ったことなど一度も無く、それどころか父親が飛車に角に香車に桂馬まで抜いて対戦しても負けていたように記憶しています。

そんな感じで中学生以降は、ほとんどやらなくなりました。

※ ※ ※ ※ ※

しかし息子(現在小学四年生)が少し大きくなった小学二年生の頃に、何故だか妻が子供用の将棋を買ってきて、息子がやり始めるのに私が「対戦相手」となり久々に将棋をすることなりました。

暫くやってましたが、いくら私が強くないと言ってもやっぱり私ばかり勝ってしまい、かと言って私が駒を抜いてやるのは息子も面白くないようで、そしてほとんどやらなくなりました。

しかし今年から息子は小学四年生となり何か部活に入らないといけないという話となり(三年生からやっているある球技の部活とは別に入らないといけない)、色々と迷っていましたが結局は将棋部に入りまして、そして子供たちの中で対局してみると、もちろん負ける相手も居ますが上級生相手に勝つこともあるようで、それで面白みを感じるようになったみたいで先日、息子から「将棋をしよう」と誘われました。

やってみるとやっぱり私が勝つのですが、先述した二年生の時よりかは息子も強くなっているように感じますし、何より自分が負けても「面白く無くなってギャーギャー言う」という感じが無くなり次の私との対局を楽しみにしているようですので、息子も成長したなぁ、なんて思ったりしました。

その内に私が負けるようになるような気がしていますが、とりあえず今のところ「対戦相手」になれるだけでも、私にとっての将棋は「昔取った杵柄」と言えるのかも知れないと思いました。

そしてこのような時に、ささやかながらも「日々の幸せ」を感じながら私は過ごしているのだろうと改めて思いました。

「テレビを見る」と「バカ」の関係

はじめに

以下の記事を読みました。

news.livedoor.com

以下の囲みに一部を引用します。

先日、はてな匿名ダイアリーに「『テレビ観ないとバカになる』という言葉を聞いて驚愕した」という題の投稿があった。なんでも、この投稿をした人物、同僚の女性と話していたときに「テレビ観ないからみんなバカになるんですよ。そういう人は芸能人の話にも疎いし、話に厚みがないじゃないですか」と言われ、愕然としたというのだ。

投稿者はこの発言に耳を疑い「この女が自分のことを賢い側の人間だと認識していたことに驚いたが、それ以上にテレビ観ないとバカになると認識している人間がこの世にいることに驚いた」と記している。少々発言に棘があるものの、この主張に賛同する人は多いはずだ。

これを読み思ったことを以下に記します。

「バカ」の定義が個々人の価値観により異なるのかも

一般的には「バカ」という言葉は頭が悪いとか、みんな同じように考えている共通認識だと思い込んでいたのですが、今回の記事を読みそれが違うのかも知れないな、と思いました。

すなわち、上で引用した「同僚の女性」という人にとっては、テレビでやっているような芸能人の話題を日常の会話にも挟み込ませることを「話の厚み」と捉えている訳であって、それが出来ない人の会話は「薄っぺらい」訳であり、そのような人を「バカ」と捉えているという話なのかな、と思った訳です。

真逆に会話の大半がそのような「テレビでやっている芸能人ネタ」みたいな人のことを「バカ」と定義している人と、上で述べたような人が「バカ」に関して何かを議論しても話が噛み合う訳が無いし、「価値観の違いとしか言いようが無い」という話なのかも知れないと思いました。

「テレビ」と「ネット」はあまり関係が無い話かも

例えば「テレビの芸能人ネタばかり見ているとバカになる」という立場に立って考えるとします。

すると当たり前の話ながら、テレビは全く見ずに主にネットばかり見ている人であっても、ネットの「芸能人ネタ」ばかり見ている人も「バカ」に該当するハズです。

もしくは「面白いだけで何の役にも立たないテレビ番組なんて見ているとバカになる」という立場に立っても、それならテレビは全く見ないがネットのユーチューブ等で「おもしろ動画」ばかり見ている人だって同じ「バカ」であるハズです。

そして、「いやいや、ネットのおもしろ動画は娯楽でもあるが学ぶものもあるのだ」と反論する立場に立てば、それはテレビの「面白い番組」であっても基本的には同じなのでしょう。

そういう意味で、そのような意見の違いは「何を大切と思い、何を下らないと感じるか」という価値観の対立なのであって、「テレビvsネット」という対立では無いのだろうと思いました。

おわりに

私は全くテレビを見なくなり十年近く経ちます(妻の実家に帰省した時や、もしくはスポーツ観戦などではたまに見るときもあります。「自宅でとりあえずテレビを付ける」という感じで見ることが全く無くなってから十年近くになります)。

が、だからって自分がテレビを見ていないから賢いなんて思いませんし、テレビを見ている人がバカだとも思いません。

人が賢いのかバカなのかを決めるのは、「主に見ているのがテレビかネットか」なんてことでは無いように思っています。

「運」と「実力」

はじめに

私(45歳男性)がブログで書く内容は「仕事(労働)のこと」と「結婚出来たことや家族との幸せな生活のこと」が多いのですが、それを自己分析すると両方とも心底から良好な結果を手にしたいと若い頃から考えていて、そして一定の努力をした上で一定の結果を手に入れたものであるからだと思います。そして他にも少しは好きなものがありますが(MT車など)、先述した二つが現在の充実した生活の「大半」であるので、それに関することをよく記しているのだろうと思います。

しかしながら「努力した」とは言っても、では「運も良かった」という側面は無いのかと考えれば、それは必ずあるのだろうと思います。そんな訳で今回は努力を基にして身に付けた「実力」と、「運」の関係について思ったことを記したいと思います。

回ってきた「運」を結果に結びつける為の「実力」

仕事に関してはいつも書いている通りサラリーマンから始まって最終的には一人きりのフリーランスに行き着いた訳ですが(現在九年目)、ずっと同じ業界に居ますので「若い時から積み重ねてきた経験や技術力」で飯を食っている(稼いでいる)訳ですが、30歳の頃には大きく体調を崩して十分に働けなかったりとか、少し前にはブログで報告した通り軽くない病気で入院し小さくない手術を受けたりとか、そんな感じで「運が悪い」と感じる時もありますが、そんな時にでも何とかしのいで来られたのは、それこそ「実力がベースにあったから」のように思います。

そして逆に「ここが勝負どころ」と言う感じで頑張って少し上に昇る時期も必ずある訳ですが、そういう際にも「実力」を武器にして勝負をかけてきた訳です。

大した経験も実力も無い「空っぽ」な自分だったら、回ってきた運を生かして勝負することが出来ませんし、そもそも不遇の時期を持ちこたえることが出来なかったように思います。

そのように考えると、回ってきた「運」を良い結果に結びつける為に「実力」が有効に働いたと言えるように思いますし、特に若くて元気な時分において金銭的な損得勘定(収入が多いか少ないか)よりも「経験や技術を積み重ねること」を意識して必死に働いておいて良かったな、と今になっては率直に思います。

直接的でない「努力」も報われた「結婚」

上で述べた「仕事」に関しては自分の努力もあったとは言え「そもそも入った職種が自分に向いている内容だった」という「運」もあるとは思います(と言っても給料とか安定よりもそういう観点で入社する会社を選んだのも自分自身なので「運と努力とどっちが先か」は堂々巡りであるようにも思いますが)。

一方で「結婚」に関しては非モテ人生まっしぐらだった(20代後半まで彼女居ない歴=年齢だった)私にとっては明らかに「不得手なフィールド」であった訳です。

しかしながら(20代後半に一度だけ恋愛経験(して破局)が出来たとは言え)非モテであるまま30代を迎えた自分がそれほど卑屈にならずに居られたのは、今から思えば仕事のほうの充実感が半端ではなく高かったことは必ず関係していたように思いますし、また今の時代、「仕事にこだわりを持っているし実践している」という事実が「結婚」に関して大した武器になるとまでは思いませんでしたが(そんなこだわりより学歴とか企業名のほうが一般的には武器になると思います)、一定の評価をしてくれる女性も必ずいるハズだとも思えたからこそ、結婚相手探し(今で言う婚活)に一歩踏み出せたのだろうと思います。

そして「とりあえず設計など技術的な仕事をこだわってやっている人が良い(=嫌な仕事をお金の為にしているという人は嫌)」と考えていた妻と知り合って、妻が求めている部分と「私が自信のある部分」がピッタリ一致していたからこそ(もちろん他にも様々な要因があるとは思いますが)出会って十日ほどで同棲して三ヶ月ほどで入籍するという「スピード婚」に至ったのだろうと思います。ちなみにそれから既に十五年近く経ちますがずっと平穏に結婚生活を送っています。

確かに妻という女性と出会えたこと自体は「運」であるとは思うのですが、仮に20代の時の仕事の頑張りが私に無ければ上手く行っていたとは限らないのだろうと率直に思いますし(そもそも婚活に踏み出せていたかも分からない)、別に結婚を意識して仕事を頑張っていた訳ではなくもっと純粋な「技術屋魂」的な感じで努力し頑張っていた訳ですが、その努力により身に付いた「実力」が直接的には関係の無かった「結婚」でも活かされた、と言えるように思います。

おわりに

以上のように書きましたが、やはり仕事をする力というのは収入の源であり、また結婚生活は程度は別として必ず一定の収入力が必要であり、また若い時から「いつかは結婚したい」と何となくでも私は考えていたので、そのような部分も仕事を頑張るということに対して潜在意識的に働いていたかも知れないな、とも思います。

あと、私は若い時から安定とか肩書きとか全く無頓着な人間でして社会人になってからも「実際に仕事が出来るかどうかが重要」という意味で実力主義の考えをしていましたが、そういう部分は本当に妻の価値観と一致していたからこそ、結婚して子供が出来たにも関わらず何の肩書きも無いフリーランスになって自宅で仕事をしていても、妻も何もネガティブには考えないのだろうと思いますし(と言うより事前より私の性格を考えて妻からもフリーランスを勧められていました)、そのような部分は必ず「夫婦円満」に繋がっているのだろうと思います。

以上、「運」と「実力」の関係について実体験を踏まえ思うことを記してみました。

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「オートマしか運転出来ないようなヘタクソなヤツには運転させるな」という極論への反論

はじめに

いつも書いています通り私(45歳男性)はMT車(マニュアル車)が大好きでして、ずっと乗り続けて(所有し続けて)二十年以上になるのですが、同時に「妻がオートマしか運転出来ない」者でもあります(従って主に妻が運転する為のオートマ車も所有している)。

主に踏み間違い事故に絡めて「オートマだから事故が起きるのだからMT車にすれば良い」と言った言説があります。最近もニュース記事を目にしました。

ドライバー(=国民)に対して国(政府)などが「MT車に乗ることを強制出来るのか」とか、それが出来ないとして強制ではなく啓蒙活動等でMT車に乗ることを促したとして「新車販売台数の九割以上がオートマ車となって久しい」我が国において有意なほど普及するのかとか、そういうことを考えれば現実性が乏しいとは思うのですが、確かに「踏み間違い事故」だけに限って言えばオートマ車からMT車に乗り換えれば事故を起こす可能性は減るように思います。

しかしながら「全ての事故に関してもオートマ車よりもMT車のほうが安全なのか」と考えれば、それは「人による」のであって、例えばウチの妻にとってはMT車よりも「オートマ車」のほうが安全であると確信的に思っています。ちなみに妻は私と知り合った直後にオートマ限定免許の「限定解除」をしましたので免許の上ではMT車も運転出来るのですが、安全を考えてオートマ車に乗ってもらっています。

たまに極論として「オートマしか運転出来ないようなヘタクソなヤツには運転させるな」と言った意見を目にするのですが、それに対する反論と言うか、特定の相手の言説を取り上げている訳では無いので「反論」という言葉は少しおかしいかも知れませんが、そのようなことを以下に記していきます。

ウチの妻のケース

前述したようにウチの妻はMT操作が苦手です。オートマ限定免許だったものは結婚する前に「何とか」限定解除したのですが、その後に私のMT車で練習しましたが上達しませんでした。

妻がMT車を運転する姿を横で見ていて何が危険かと言えば、MT操作に気を取られて安全確認が疎かになっている点です。オートマ車を運転している限りはかなり良い感じで安全確認が出来ていますので尚のことそのように思う訳です。

車両感覚や車庫入れその他も良い感じですし、MT操作以外は「上手なほう」であると思いますし、たまに誰か他人を乗せた時にそのように言われたことも一度や二度ではありません。

MT操作が苦手というよりも、「一度に多くのこと」をやるのが苦手なのかも知れません。「ハンドル操作と右足のペダル操作」までなら十分に許容範囲だが、オートマ車と比較しMT車は更に二つ、すなわち「左手のシフト操作と左足のクラッチ操作」が増えるので許容を超えてしまうのかも知れません。

オートマ車を運転する妻ですが、間違っても「ながら運転」などしません。それは私の影響もあるのかも知れませんし(私はブログではいつも言葉を選んで書いていますが日常会話では「スマホでゲームしながら運転なんてするヤツは云々」とかなり汚い言葉で罵っています)、そもそも「一度に多くのこと」をやるのが苦手なのでやりたいとも思わないのかも知れません。

オートマ車を運転している限り、普通に上手に安全運転が出来ている訳ですから、それで良いのだと思っていますし、子供が生まれて暫くしてから妻は毎日のように運転するようになり既に五年以上経ちますがずっと無事故を続けている訳ですが、今後仮に「MT車しか運転出来ない世の中」になれば、妻のようなタイプの人たちはクルマの運転を控えることにより日本経済(景気)にとっては基本的にダメージしかありませんし、また「どうしても必要」な場合は苦手なMT操作に気を取られ安全確認が疎かになり周囲に危険を及ぼしながら運転することになる訳ですから、「一体誰が得をする話なのだろうか」と率直に思います。

MT車の操作ミス」を過小評価していないか?

MT車の優位性を過度に挙げている言説というのは負の側面を無視しているケースが多いと感じています。負の側面と言うのは、オートマ車では原理的に起こり得ない「操作ミス」(ヒューマンエラー)が存在する点です。

基本的には「エンスト」と「シフトの入れ間違え」が主なヒューマンエラーだと思っていますが、具体的な状況の描写は不正確になるとマズいので書き控えるのですが、このようなミスを起こした場合、状況によっては非常に危険な状況に陥ったり、もしくは周囲に多大なる迷惑を掛けることは普通に起こり得ると思います。

そのような「操作ミス」(ヒューマンエラー)はオートマ車では起こり得ない訳ですが、逆にMT車の場合は原理的に「誰でも起こし得る」訳です。下で述べるような「故意」による悪質な運転はドライバーの意識次第でゼロに出来ますが、上で述べたような「うっかり」によるミスは根本的にゼロには出来ない訳で、そのようなヒューマンエラーの種類が「オートマ車よりもMT車のほうが多い」という点は強く留意しておく必要があるのだろうと思っています。

「ながら運転」はクルマが悪い訳ではなく無くドライバーの責任

近年ではスマホの普及に伴い「スマホで遊びながら運転」という危険な行為がよく取り上げられますが、スマホが普及する前だって色んな「ながら運転」がありました。テレビを見ながらなんてまだ可愛いほうで、本(雑誌)を読みながら運転したりとか、化粧をしながら運転したりとか、そういった類の運転も何度も見かけたことがあります。

スマホなど「片手で何かを持ったり操作したりしながら」運転するのは非常に危険だと思いますが、確かにオートマ車であるが故、という側面は強いと思います。パワーステアリングの普及によりハンドルが軽くなったので「片手運転」が容易となり(と私は思っています)、それに加えてオートマ車と言うのは原理的に「ハンドル以外の手の操作が不要」である訳ですから、片手運転をしながら余ったもう片方の手で「何か他のこと」をやってしまう人が現れるのは、自然の摂理のようなものかも知れません。

しかしながら、「手数と言う意味では問題なくても、そもそも視線や集中力の少なくない一部を運転以外のこと(スマホなど)に費やすなんて、クルマが鉄の塊であり特に生身の人間(歩行者や自転車など)と衝突すればほぼ一方的に相手にダメージを与えるという特性を考えたら、ながら運転なんて絶対にしてはいけない」と思い踏みとどまるのが人間としての普通の姿だと思いますし、私の妻をはじめ「ながら運転」などせず集中してオートマ車を運転している人も多いのだろうと思っています。

一部の不良なドライバーの為に「ながら運転を誘発するからオートマ車を廃止しろ」と言う論理は、例えばMTやオートマに関わらず「クルマ」自体が乗り方によっては危険である訳ですし、現に不良なドライバーの運転(過度のスピード超過など)により毎年毎年少なくない死亡事故が起きている訳ですから、「クルマなんて乗り物があるからスピードを出したり危険な運転が出てくるのだからクルマなんて廃止しろ」という論理と同一であるように思えます。

実際にはそのような「安全性原理主義」など有り得ず世の中と言うのは利便性や経済性など様々な要因とのバランスにより社会通念として許されるものと許されないものが決まっています。そして社会通念上、「クルマ」そのものの存在が許されるのと同じように「オートマ車」の存在もまた許されて然るべきだろうと思っています。

すなわち、スマホ運転など危険な「ながら運転」に関しては、回りくどくても時間が掛かっても、技術の進歩(防止装置などの普及)や、取締りや啓蒙活動によるドライバーの意識向上により安全性を向上させるべきなのであって、「オートマ車」の存在それ自体が「悪」ということでは無いのだろうと思っています。

おわりに

以上、MT車が大好きな私ですが「オートマ車悪玉論」への反論(のようなもの)を記してみました。私もセカンドカーなどオートマ車も普通に運転しますが、MT車を運転する時と同じ姿勢で(過度にシートを下げすぎない)、しっかりと両手でハンドルを持ち、MT車の時と同様の集中力で運転する限りにおいては特に危険な乗り物だとは思わない、というのが率直な感想となります。

家族と仕事とクルマと自分

はじめに(手術の後遺症の「めまい」の改善)

少し前まで書いていましたが、四月の上旬に受けた手術(耳の病気)の後遺症で「めまい」が残っていたのですが、更に改善してきまして、日常生活には全く支障が無い程度の感じになりました。(ただし立ったままその場で素早く体の向きを変えるとか、特定の動作をした際に感じる「めまい」は残っています。しかしながら日常生活ではほとんど意識しなくなって忘れている感じです)。

大好きな愛車の運転の再開

そんな訳で愛車であるアテンザですが、MT車(マニュアル車)であり妻は運転出来ないので、手術の前後の数ヶ月間はほとんど動かさずに置きっぱなしだった訳ですが、一週間ほど前から運転を再開しました。(その少し前にセカンドカーのオートマ車では妻に横に乗ってもらって「試し」で少しだけ運転してましたが本格的に運転を再開しました)。

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改めて運転すると自分で嬉しくなってしまって、妻と一緒に買い物に行ったり、妻を駅まで送っていったりしていて、平日にも関わらず今週は三回も出動しました。改めてMT車が、そして何よりこの「アテンザ」が好きなのだろうと自ら改めて思いました。

大好きな「餃子の王将」の再開と息子の成長

自宅から歩いて十分弱のところに「餃子の王将」があり自分で最も好きな外食店の一つであることもありよく行っていたのですが、手術して退院後は後遺症の「めまい」が不安でお店に行くのを、と言うより一人(妻の付き添い無し)での外出自体を控えていました。十分弱だけ歩くのも「不安」であるくらいの「めまい」がしていた訳です。

しかし「さすがにもう大丈夫だろう」と思いまして、先日、夕食を食べに息子を連れて行ってきました(妻は仕事で遅くて居なかった)。やはり「変わらぬ美味しさ」でした。

息子がもっと小さい頃は百パーセント親の私(や妻)が息子の面倒を見ている感じでしたが、息子も小学四年生になり、もう「めまいは大丈夫だ」と確信していたとは言え妻の付き添い無しでは手術後初の外出だった訳ですが、息子も一緒だと何となく「心強さ」を感じましたので、それほどまでに息子は大きくなり成長したのだなぁ、と改めて思いました。

仕事は普通にバリバリ再開

自宅でフリーランスでやっている仕事(設計のような仕事)ですが、こちらは上記より一足早く、二週間ほど前(GW明け)から完全に復帰しています。

「何とか復帰」という感じではなく、けっこう忙しくて平日は一日十時間ほどやっていて、土日も完全には休めない感じなので、こちらも「自分は仕事が好きなのだな」と改めて思った次第です。

おわりに

そんな訳で、私の人生は上の記述で出てきた「家族」と「仕事」と「クルマ」と、そしてそれらをこのようにして取り上げている「ブログ」でほとんど全て、と言うと少し大げさですが、些細な楽しみは他にも少しだけありますが真の意味の充実感を感じているものはこれらで大半を占めるように思います。

それが多いのか少ないのか私には分かりませんが、私としてはそのような人生に大変な「幸福」を感じているのだと、少し大きな病気をして手術、入院や後遺症を経て回復し通常の生活に戻ることが出来て、改めてそのように思いました。