kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

自治体も「炎上商法」に手を染める時代なのか

以下の記事を読みました。

headlines.yahoo.co.jp

ユーチューブで動画も見てみたのですが、個人的にはそこまで酷い動画であるとは思いませんでしたが、例えば、

・自治体のPR動画と考えた時に敢えて「女性を性的対象とする」ような内容とする意義があるのか?

というような観点から批判の声が上がることもまた十分に理解出来るところです。

それはさておき、批判される側の当事者である宮城県村井嘉浩知事のコメントを上記記事より以下の囲みに引用しますと、

一方、宮城県村井嘉浩知事は、16日に参加した仙台市長選(23日投開票)の立候補者の個人演説会で、今回の観光PR動画について、「(過去に)資料を作ったら『こんなの誰も見ない』というから面白いの作ろうと思って作ったら、『いやらしい』と(言われる)」と有権者の笑いを誘った。その上で「でもおかげさまで(閲覧数が)120万アクセス増えました」と強調した。

とのことであり、『でもおかげさまで(閲覧数が)120万アクセス増えました』と述べているということは、その動画の内容が社会的に与える影響がどうであるとか、もしくはそもそも「PR」したかった宮城県というものへの印象が良くなるのか逆に悪くなるのかとか、そういう観点における評価よりも「とにかくアクセス数を稼ぐこと」が上位にあるように感じられました。

仮に事前に賛否両論巻き起こり、不快に感じる人も少なくないのだろうと想定した上で、それでも誰にも見られないような動画を作るよりかは話題性になりアクセス数が稼げる動画を作るべきと考えて製作されたのであれば、それを世間では「炎上商法」と呼ぶのだろうと思うのですが、力のない個人が何かの信念に基づき広く意見を発信する為の手段としてそのような手法を取ることはまだ理解出来なくも無いのですが、現在では十分に有名な人でも「更に稼ぐ」為に敢えて過激な言葉で世論を煽ったり(そんなブログを発信し大問題になりテレビ番組を降板したアナウンサーも居ました)している訳ですが、更にはとうとう公共性の象徴のような存在である自治体までもが「アクセス数至上主義」に基づき公益性や品位といった「数字では計られないもの」に対する配慮を置き去りにしながら動画等を製作する時代なのかと思うと、個人的には暗澹たる気分となります。

冒頭で紹介した記事を読み思ったことを記しました。

テレビに「毒される」のかどうかは自分次第

はじめに

以下の記事を読みました。 

headlines.yahoo.co.jp

この女性議員の暴言ですが、私はいまだに聞いたことがありません。そのようなことがあった事実は新聞やインターネットの記事で「文字を読む」ことで知っているのですが、その実際の音声を聞きたいなんて微塵も思いませんので、敢えて「聞く」ことは無い訳です。

そして私の場合は「基本的にテレビを見ない」という生活をしていますので(もう五年以上になると思います)、そのような音声が「勝手に聞こえてくる」ということも全く無い訳です。

基本的にテレビを見ない

現在の私の勝手な印象ですが、テレビに対しては一例を挙げると、

・嘘か本当かよく分からないような情報が流れている
公序良俗に反するような言葉遣い等が氾濫している

というイメージがあります。

一点目に関しては例えば大して流行ってもいない事柄を「大流行」と言ってみたりとか、多くの医師の知見に反する内容をあたかも「一般的な情報」として垂れ流したりとか、そういうイメージです。

二点目ですが、いわゆる「お下品」な番組は昔からあったのですが、昔はその手の番組と普通の番組はある程度分かれていたという印象なのですが、垣根が曖昧になり、「お下品」ではないいわゆる普通の情報番組的な番組なのに上半身裸の人が座っていたり、汚い言葉遣いが氾濫していたり、というイメージがある訳です。

上記は私の勝手な印象ですので世間一般の受け止めは異なるのかも知れませんが、最低でも私は上記の通りの印象を抱いているので、自分自身に限って言えば「基本的にテレビを見ない」生活に切り替えたのだろうと思いますし、間違っても無為にテレビを付けっ放しにして「子供に見せる」なんてことはしないのだろうと思います。

親としての思考の深さの問題

以下の囲みに上記記事から引用します。

「いきなり叫ばれて、びっくりしました」と話すのは、保育園年長さんの娘がいる30代会社員女性。先日、慌ただしく出かける準備をしていたところ、娘が楽しそうに「この、ハゲーーー!」と叫んだ。

「朝、時計のかわりに民放の情報番組をつけっぱなしにしているのですが、そこで繰り返し放送されるのを聞いて、覚えてしまったようです。新しいギャグか何かだと思っているのか、叫んだあとケタケタ笑っています。人をののしる言葉だと理解していないぶん気が楽になりましたが、通りすがりに耳にした大人は気分悪いですよね。なので、言わないように注意はしましたが、理由については理解できないようで……。保育園でも、流行っているみたいです」

この方の親としての態度は相当に問題があるように思いました。

いや、子供にテレビを見せるのが良いのか見せないのが良いのか、その判断はどちらでも良いというか、価値観により様々だと思いますので「子供にテレビを見せる」こと自体に問題があると言いたい訳ではありません。

ただ、自分の価値観(子供を健やかに育てる上で自分が信じる信念)として「子供が人を罵るような言葉遣いは誰かの真似であっても出来るだけすべきではない」と考えるのであれば(この女性はそのように考えているのだろうと思います)、『朝、時計のかわりに民放の情報番組をつけっぱなし』にするなんて行動は有り得ないのではないか?と思う訳です。そして(以下の囲みに更に引用)、

豊田議員の口調を真似して娘が叫んだ日の夜、夫婦で話し合い、朝の情報番組はしばらくNHKにしておこうと決めた。NHKだけは、この暴言の音声をそのまま放送していなかったからだ。

と、問題が起こった直後なのに「NHKなら安心」なんていう判断は極めて安直であるように思うのです。

ちなみに私はテレビを全く見なくなる前、「民放はほとんど見ないけど、NHKだけは見る」という時期もあったのですが、NHKの情報番組で「韓国語でメールすることが流行っている!」みたいな番組を見まして(内容に関してはグーグルで「韓国語 メール 流行」と検索すれば今でも何がしかページが出てきます)、これが引き金となって「もうテレビは見ないでおこう」と決断したのでした。韓国が好きとか嫌いとかの問題ではなく「信憑性」に関して極めて大きな疑問を感じた訳です。

上記は随分前の話ですが、最近でもNHKで「睡眠薬が糖尿病に効く」なんて間違った情報を流して謝罪していましたが、これなんかも「間違い」というよりかは「耳目を引く為に不確かな極端な情報を故意に流している」という色合いが強いのではないか?と個人的にはそのように受け止めています。

と言う訳で私個人としては子供(現在小学四年生)にテレビを無条件には見せていないのですが、その判断に「民放」と「NHK」の違いはありません。

なお、くどいようですが念のため申しますと、自分とは反対に「子供が小さな間でも玉石混合の情報に触れさせて本人に取捨選択させながら成長させれば良い」という親の価値観を否定する気持ちは全くありません。

おわりに(テレビ=インターネットの時代)

前述したように現在は基本的にテレビを見ない生活をしていますが(たまに見るのはスポーツ観戦などや、自宅以外でテレビが付いている場合などのみ)、今後も絶対に見ないと思っている訳ではなく、時間的な余裕が生じれば「選んで」見れば良いと思っています。

別にテレビの情報の信憑性や言葉遣い等の乱れ等がインターネットより劣っていると思っている訳ではありません。ただ、インターネットの黎明期は私自身、テレビ>インターネットと思っていましたが、現在はテレビ=インターネットなのだと思っているので、インターネットの情報を受け取る際に「見るものを自分で選んで、かつ注意深く受け止める」ように、テレビに対しても同様に接すれば良いだけのように思っています。

従って例えばインターネットの映像や音声等を自分の好みに関わらず「付けっぱなし」にするなんて行為は「有り得ない」のと同様に、テレビに関しても「時計代わりに付けっぱなしにする」なんてことは今後も有り得ないのだろうと、自分ではそのように思っています。

私が「フリーランス」で長時間働いているのは「仕事が好きだから」という一言に尽きる

はじめに

また一週間ほど当ブログの更新が滞ってしまいました。基本的に「仕事が忙しい」為です。

本日は標題で記した通りに改めて思いましたので、その件を手短に記します。

ちなみに私はフリーランス九年目で、仕事の内容は設計のような仕事となります。

寝られなくても心は折れない

現在は土曜日になったばかりですが(明け方の前)、木曜日から金曜日かけて徹夜して仕事をして、金曜日の朝に二時間だけ寝てから予約してあった病院に行って、帰ってきて少し寝ようと布団に入った直後に全く別件の仕事の電話がかかってきて、そしていわゆる「急ぎの仕事」をこなして先ほど相手に出来たものを渡して、現在に至ります。

こういうことは珍しい訳ではありませんが、それでも心が折れないのは一言で言えば「仕事が面白い」為だと思います。

これが例えば「生活の為に仕方なく」みたいな感じでやっている作業なのであれば全く話が異なるように思います。私にとって自分の仕事と言うのは、例えばMT車を運転したりとか、現在のようにブログを書いたりとか、そのような「楽しい」「面白い」と感じる事柄と全く同レベルか、もしかしたらそれ以上に「楽しい」「面白い」ことなので、諸般の事情により寝不足になったり時間的余裕が無くなったりしても「嫌になる」ことが無いのだろうと思います。

「誰の為に働いてやっているんだ!」とは全く思わない

昔からよく聞く「誰の為に働いてやっているんだ!」というセリフ。すなわち家族(妻子)の為に働いてやっているのだ、とアピールするようなセリフですが、私自身はこのような発想は全く思い浮かべません。

そもそも、いわゆる「最低限の生活費の確保」に限って言えば、現在の半分近くまで仕事を減らしてもやっていけるように思いますし(例えば所得を半分に減らしても、その分だけ累進課税の税率が下がったり、もしくは現在は全く受けられていない各種の補助が受けられたりするようになるので、実質的な所得は半分よりかなり多いです)、また妻はどちらかと言えば健康等のことを勘案して「少しは仕事を減らしたら」という感じです。

それでもハードワークを続けているのは、例えば「信頼を維持し続ける為」みたいな理由付けも出来ますがそれはあくまで「後付」なのであって、結局はこの仕事が「楽しい」「面白い」からなのだろうと思います。

おわりに

現在の仕事にめぐり合えたのは「運」の要素もゼロでは無いと思いますが、かと言って「それだけ」でも無いのだろうと思っています。

そもそも、新卒で就職した際(約25年前)の配属は自ら希望したものとは異なり「全く興味の無かった分野」へ配属された訳ですから、それでもその仕事(細かいことは時代と共に色々変わっているが根本的にはずっと同じ仕事)を現在でも「一生の仕事」(になると思っています)として長年続けることが出来ているのは、めぐり合わせの「運」と同等かそれ以上に、特に若い頃に仕事に対して真摯に向き合ったり、もしくは内容を極める為に努力したりしながら、その仕事の面白さに気づき、また平行して周囲の評価が上がる等の「充実感」も伴いながらその仕事を「好きになっていった」という側面も強いのだろうと、今になってはそのように強く思う次第です。

「多様な価値観」の重要性について

はじめに

企業のCMとか自治体のPR動画などが「炎上」状態となることがしばしばあります。

賛否が真っ二つの場合は別なのですが、「ほぼ批判一色」という時があります。

その存在を踏まえて思ったことを簡単に記します。

「多様な価値観を認める」はずが、逆の結果になる危険性

あまりにデリケートな問題は取り上げる勇気が無いので、比較的「穏やか」な事柄に関して例示します。

「専業主婦は是か非か」という問題があるとします。

これは事実であると個人的には思っていますが、これまでの社会というのはいわゆる「専業主婦」の存在に税などで優遇している面がありました(今もあると思っています)。

これは「男女の機会の均等」とか「多様な生き様の肯定」とか、もっと平たく言えば「男女平等」のような観点から不公平ではないか?という疑問の趣旨は十分に理解出来るところです。

すなわち、例えば結婚している夫婦がどんな配分で夫と妻のどちらが働くかとか、そもそも結婚せずに独身を貫くのかとか、そのような選択は個人の自由であり、かつ全ての人々に平等であることが「社会として好ましい」という立場に立てば、「結婚して主に夫が働き、妻は主婦業に専念する」という選択をした人々だけ「優遇」されるのはおかしいのではないか?という疑問は十分に理解出来る訳です。

私個人が何が好ましいと思うかどうかは別として、上で述べたような考え方が普及し、そして社会制度が変わっていくことを私個人として「認められるか否か」で言えば、それは認められる、という意味となります。

しかしそれが行き過ぎてしまって、例えば将来、「専業主婦=無職で穀潰し」みたいな意見が蔓延し、専業主婦の人たちが陰に隠れるような存在になってしまったら、それは好ましい社会と言えるでしょうか?

そもそも「多様な意見の肯定」が出発点では無かったか?

元々の意見発信者は「男よりも女を上にしたい」とか「専業主婦より共働きを上にしたい」とか、そのような動機により意見発信を始めたのでしょうか?

中にはそういう人も居るのかも知れませんが、圧倒的多数はそうではなく、「多様な考え方」「多様な生き様」の人々が出来るだけ「平等」に扱われるべきという動機であるのだろうと個人的にはそのように信じています。

そのような立場に立てば、現在の状況から逆に触れすぎて「専業主婦=無職で穀潰し」みたいな風潮が蔓延する社会も望まないハズです。

これは専業主婦の問題に限らず、例えば性的少数者の話題であっても何であっても、基本的には全て同じ構図なのだろうと考えています。

「現在の自分の価値観」よりも優先されるは「将来の社会の多様性」

現在の自分の価値観により否定したい出来事は山ほどあります(特に公序良俗に反するような事柄など)。

ただ、自分が信じるその否定の普及が現在の社会において達成されるのと、その考えの正反対も含めて「多様な価値観」が将来の社会に残されるのを比すれば、重要性は圧倒的に後者が高いのだろうと個人的にはそのように思います。

何故なら、現在の自分の価値観なんて「絶対真理」でも何でもありませんし、またそれは私だけで無く多くの人々でも同様であると思っている為です。それは例えば性的少数者に対する見方や思いに関して「たったこの数十年」に限って言っても、私も含めた社会全体の捉え方はかなり「様変わり」していることからも分かります。

そのような儚い「現在の自分の価値観」の肯定化なんかよりかは、自分が全く知らない「将来の社会」において、より普遍的な価値である「自由な意見が言えて、そしてその存在が認められる社会」の存続のほうが、圧倒的に優位性が高いのだろうと思うのです。

おわりに(自己反省を少し)

少し上から目線の物言いに聞こえたかも知れませんが、これは自戒を込めた意見であって、今から思えば自ら「少し反省」することも多々ありまして、その内の一つを具体例を挙げて取り上げます。

少し前に「うなぎのうな子」(うなぎ少女)の動画が炎上する騒ぎがありました。

当ブログでは無いのですが、その前にやっていたブログ(現在は閉鎖)で私も批判的に取り上げたのですが、その時の取り上げ方を自ら振り返ると、少し反省する点もある訳です。

「うなぎのうな子」のような内容を「決定的に否定したい」という気持ちは今でも全く変わらないのですが、当時の批判ブログを書いていた際に「自分の知らない将来の社会の多様性」に関してまで考えが至っていたか、という意味で反省する点があるという意味となります。

そんな訳で、何かを批判的に取り上げる際にも、

・余程の客観的根拠が無い限りは「言い切り」の表現は控える
・その出来事なり価値観の否定はしても、その当事者(人や企業や自治体など)の存在までは否定しない

などの配慮が必要なのだろうと今では思うのであって、不完全な人間である私がそれを「完璧」に出来る訳では無いのですが、このようなことを常に心に留めておく必要があるのだろうと改めて思った次第です。

ネット上で流布される「デマ」の定義

はじめに

以下の記事を読みました。

headlines.yahoo.co.jp

有名人の方を誹謗中傷する、いわゆる「デマ」をネット上で流していたという問題ですが、最初にデマを流した女の動機を上記記事より以下の囲みに引用すると次の通りです。

「人の興味を引くような記事を掲載して閲覧数を伸ばし、広告収入を増やしたかった」

以上を読んで思ったことを手短に記します。

極端な「デマ」だけの問題では無いのかも

上で紹介した事例は典型的かつ悪質な「デマ」ですが、そのような悪質なケースに限らない、もっと一般的な問題を有しているようにも思いました。

すなわち、この手の「デマ」を流布する動機の流れは以下のようになっています。

(1)自サイトに多くの人を集客したい。

(2)自分のサイトで人目を引く情報を流布する。

(3)多くの人がそのサイトを訪れ情報が拡散される。

以上の流れとなっているのですが、これは今回紹介したような「極端で悪質なケース」に限った問題でしょうか?

上記(1)について

まず(1)の動機ですが、今回の事例は「広告収入」を得たいという動機ですが、いわゆるお金がらみであっても、そうでなくいわゆる「目立ちたい」「アクセス数の多いブロガーになりたい」というような自己顕示欲的な動機でも、その後の流れの「問題」の質や大きさには基本的に影響を与えないように思います。

上記(2)について

今回の事例のような「他人を誹謗中傷する悪質なデマ」とか、もしくはいわゆる「バカッター」のように自分が目立ちたいが故に公序良俗に反していると一目で分かるような画像や映像を流すとか、そのような「極端な事例」に限った問題では無いように感じます。

例えば、「会社を辞めたいと思ったら明日にでも辞める”べき”」という情報をブログ等で発信するとします。

自らの経験としてそのように振る舞い、またそうして一定年月が経ち、いわゆる「成功」という結果が出ている人が、自分以外に色んな性格の人たちが世の中に居ることなども熟慮した上で、それでも確信を持って「べき」と思うが故にそのように意見発信する場合は何も問題が無いと思っています。

しかし、自ら結果を出せていない(途中段階で結果が出せるかどうか不明である)とか、もしくは結果を出せている人であってもその方法論が世の中の多くの人にも当てはまるか否かなどを熟慮しその意見発信が世の中に対して役立つかという観点と言うよりかは、

「○○と私は思う、なんて書き方をするよりかは、○○であるべき」と書くほうが人目を引きアクセスを集めやすいから、「べき」と言いきってしまっちゃおう

みたいな思考で意見発信しているとすれば、それは違法性等の問題は横に置き、いわゆる精神性の部分においては、

(1)自サイトに多くの人を集客したい。

(2)自分のサイトで人目を引く情報を流布する。

という部分において冒頭で述べた事例で「有名人に関する悪質なデマ」を流すような人と、大差が無いと言えば言い過ぎかも知れませんが、方向性としては一致しているように思うのです。

おわりに

ブログなどによる意見発信など、はっきり言って「無名で誰にも読まれない」のであれば、それこそいわゆる「ネット上のゴミ」と言われても仕方の無い部分もあると思いますので、そういう意味では少しでも人に読まれるようにする為に「べき」という言葉遣いなど「人目を引く」表現方法を採用する行為を全面的に否定するつもりは全くありません。

ただ、特に広告収入を目指している人であれば(と言うか私は当ブログでは広告収入は目指していませんがそれでも常に考えていますが)、自分の意見発信が「世の中の為のもの」なのか「自らの集客の為のもの」なのか、完全に線引きはもちろん出来ないのですが、その意見発信をする際の自らの心情がどちらに傾いているのかなど自ら注意深く考えておく必要があるのではないかと、個人的にはそのように考えています。