kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

【私の禁煙の記録】 初日~十日目で感じたこと

はじめに

ブログの更新休止が伴いますのでまた後日に改めてきちんと報告するのですが、今は三月の上旬ですが、約一ヵ月後の四月の上旬に、全身麻酔を伴う手術(と入院)を行う予定となっていまして、その関係で「禁煙」する必要が生じました。

と言う訳で、三月に入ってすぐに禁煙を始めまして、本日で十日目です。そのままずっとやめるのか、退院後にまた喫煙を再開するのかはまだ決めてませんが、とりあえず手術と入院・退院までは(当たり前ですが)やめる予定です。

せっかくの機会ですので、気付いたことなどを(予定ですが)何回かに分けて記します。

今までの喫煙歴(依存度)

下で記す内容を読まれた方の中には「それほどニコチンの依存が強く無かった事例なのでは」と思われるかも知れないので、とりあえず依存度が分かるような感じの内容を最初に記しておきます。

二十歳から吸い始めまして現在45歳ですので、喫煙歴は25年です。その間の禁煙歴は、30歳の頃に何度か入院などした時期のみで、禁煙期間は延べ期間で三ヶ月も無いと思います。

最も多く吸っていた時は、二十代の時に一日3~4箱(60~80本)吸っていた時期があります。それだけ多く吸っていたのは、記憶は曖昧ですが一年間程度だと思います。

二十代の間は、それだけ吸っていない時期でも、一日2箱(40本)程度は吸っていた時期が大半だと記憶しています。

30歳を過ぎた頃に結婚しまして、それからは本数が減りましたが、それでも一日一箱で収まる時はほとんどなく、30本前後は吸っている日がほとんど、という感じで現在まで過ごしてきました。

以下、今回の禁煙に際することを記します。

もの凄い効果のニコチンパッチ

今回の禁煙では、いわゆる「ニコチンパッチ」の力を借りたのですが、これの威力は絶大だと感じました。

と言うのも、今から十五年ほど前にも、手術と入院を控えて禁煙をしたことがあるのですが、その時はパッチなどの補助剤は全く使用せず禁煙したのですが、最初の何日間かは、いわゆる離脱症状でかなり辛いものがありました。

しかし今回は、もちろん心理的な「タバコを吸いたい」というような気持ちを消すことは出来ないのですが、いわゆる「ニコチンパッチ」のお陰で生理的な離脱症状はほとんど感じずに済むことが出来ました。十五年ほど前の「何も補助剤を使わない禁煙」と比べると、本当に「もの凄い差」だと思いました。

なお、本来の使い方であれば私の使用しているパッチは二ヶ月ほどにわたって使用する前提なのですが、三日ほど使って初期の辛い離脱症状を抑えながら過ごしながら、以下に記す心理的な「タバコを吸いたい」という気持ち自体は絶対に抑えられないと確信したこと、及びパッチをやめたからと言って今更強い離脱症状が起きるとも思えなかったことから、三日ほどでパッチの使用は辞めました。

それで特に問題は起きずに、下のほうで述べる「ブレークスルー」に至ります。

心理的な「タバコを吸いたい」という気持ちは抑えられない

上で述べたように補助剤で離脱症状の度合いは大きく抑えられていると思う反面、例えば朝起きた時や食事の後や、コーヒーやお酒を飲んだ時や、一仕事終わった時、その他にも本当に様々な場面で「仕切り」を入れる(気持ちをリセットする)為にタバコを吸っていたという事実を改めて実感しますし、また禁煙後においてそういうタイミングで心理的に「タバコを吸いたい」と思う気持ちは、補助剤があろうと何だろうと全く抑えることは出来ない、ということを実感した次第です。

甘いものを食べまくって感じた「気持ち悪さ」と「ブレークスルー」

禁煙して一週間ほどは、飴やチョコレートなど甘いものを食べる頻度が極端に上がりました(もともとは滅多に食べない人間でした)。

一週間ほど経った際に、もの凄く気持ち悪くなって、その時に「甘いものの食べすぎ」に気付きました、口の中が常に甘い感じになっていること、及びそれが原因で基本的に食事が(普段より)美味しくないことに「明確に気付く」という瞬間がありました。

すると不思議なことに、その時に「タバコの『代わり』として甘いものを摂っている」ということの異常性というか、「あれ、やっぱりオレ、なんかおかしいわ」という気持ちを同時に抱きまして、その後には飴やチョコレートも一切欲しく無くなりました。

そして、それが欲しく無くなったからと言って「タバコが吸いたい」と今までより強く思う訳でもなく、むしろそのように感じることが少なくなっている(平たく言えば「タバコのことを思い出す」ことが減っている)ことにも気付きました。

現在禁煙して十日目ですが、現在の状況は大体上記のような感じです。

おわりに

やはり、手術や入院など「禁煙すべき強制的な理由」があるほうが、禁煙というのは楽なものかも知れないと、今回改めて思いました。

あと、心理的な部分は自分で解決するしかありませんが、生理的というか身体的というか、そのような部分での離脱症状を抑えるのに、いわゆるニコチンパッチなどの補助剤の効果と言うのはかなり大きいのだろうと思いました。

また、今ではタバコのことを思い出す(考えてしまう)機会はかなり減りましたが、それでもまだまだ「タバコを吸いたい」という気持ちは残っているように思いますし、退院後にはタバコを復活したいという気持ちも少なからず残っているというのが、現時点での偽らざる心情となります。

「食べ残し」を「客の勝手」と言い放つ浅はかさ

以下の記事を読みました。

news.livedoor.com

「賛否」のポイント

この話題、少し前からインターネット上で見かけていましたが、タイトルなどに「賛否」と書かれていることがありますが、その「賛否」(議論の余地がある)のポイントは、お店側がお客に対して「クソ野郎」だとか「二度と来るな」的なことを記した内容をわざわざインターネット上にアップロードするという行為が「賛否」の対象なのであって、その前の段階の「お店の忠告にも従わず大盛りを注文した上で、『食えるワケねーよ』と言い放ちながら半分以上残す」客の行為は絶対にダメな行為で確定事項なのだとてっきり思い込んでいました。

なので、上記記事で著名人がこの部分を「客の勝手」などと擁護する姿勢を示したという部分に非常に驚いた次第です。

その意見が「浅はか」だと思ったポイント

その意見(上記記事内での食べ残しの客を擁護する意見)で特に「浅はか」だと思った点を二点記します。

まずは一点目を以下の囲みに引用します。

どこにも『残す人は入るな』って書いてない

この論理が通用すると考えると、例えば電車内で床に寝そべっている人が居たとして、「どこにも『床に寝そべってはダメ』とは書いてないから、客の自由」というものが通用するという話になると思います。

と言う訳で、「電車内で床に寝そべっている人」の存在を認められるという人ならこのような言説を主張しても良いのだと思いますが、「それは常識的に有り得ないだろう」と考えてしまう人なら、「お店の忠告にも従わず大盛りを注文した上で、『食えるワケねーよ』と言い放ちながら半分以上残す」部分にだけ「どこにも『残す人は入るな』って書いてない」と主張するのは、かなり無理があるように思いました。

次にもう一点、以下の囲みに引用します。

オレは大抵残すから

先に感情論的な部分を書いておくと、よい大人が自ら「オレは大抵残すから」などと常日頃から外食店で人様が作ってくれた食べ物を残していると堂々と宣言するという部分に「恥ずかしさ」を感じないのだろうかと率直に思いました。

もちろん、体のコンディションとか、どうしても味が口に合わないなどの理由で「残してしまう」ということは誰にでも有り得ることですが、それを「申し訳ないと思いながら、こっそり」という意識で行うのか、「オレは大抵残すから」と公の場で言い放つような精神性の下に行うのかでは、全く同じ行為でもその意味合いには天と地ほどの差があるように思いました。

以上は私が感情的に思った部分ですが、今回の騒動という枠組みの中で論理的に感じる違和感としては、今回お店から批判されている「お店の忠告にも従わず大盛りを注文した上で、『食えるワケねーよ』と言い放ちながら半分以上残す」という行為の是非と、自分自身が日常的に「オレは大抵残す」こととは根本的に無関係ではないか、と率直に思いました。

おわりに

私の勝手な想像ですが、上で取り上げたような内容を本心で言っているというよりかは、「批判する意見が多い中で、敢えて擁護する立場に立ってみた言説」ということなのかな、と勝手に思った次第です。

駐車場での事故 ~小さな子供は先に乗車させてからクルマを発車させるほうが良いと思う~

はじめに

記事だけでは詳細が分からない部分がありますので具体例としての記事の引用はしないのですが、駐車場において自車を発車後すぐに我が子を撥ね死なせてしまったという内容の記事を目にしまして、改めて思ったことを記します。

小さな子供は先に乗車させてからクルマを発車させるほうが良いと思う

子供の年齢(身長)やクルマの形状にもよりますが、まだ背が小さい子供が運転席から全く(もしくはほとんど)見えない「死角」に入ってしまうということは往々にしてあると思っています。

やっぱり子供を先に乗車させてから、発車するということを「原則」とするだけで、この手の事故は防げる訳ですから、そのように実施すべきではないかと強く思っています。

チャイルドシートを装着させ、その装着具合を「確認」する

まだ背が小さい子供は後部座席に乗せることが多いと思いますが(と言うか背が小さい間は後部座席に乗せるべきと思います)、そこで必ずチャイルドシートを装着し、未就学であっても自分で装着出来るようになれば自分で装着させれば良いと思いますが、その後に「しっかり装着出来ているか」の確認を親がすべきと思っています(子供が何歳になるまで親が確認すべきかは議論の対象なのかも知れないが最低でも未就学の間は必ずそのようにすべきと個人的には思っています)。

それを実践していると、はっきり言って子供が乗車する前に発車してしまうと、直後に「子供を乗車させる→自分が一旦運転席から降りて後部座席に行きチャイルドシートの装着の確認を行う→再度運転席に乗り込み再発進する」という流れになり面倒なので、先に(発車前に)子供を後部座席に乗せてチャイルドシートの装着を確認し、完全に安全な状態となってから「発進する」という流れに自然になるのだと思っています。

安全を考える対象は「我が子だけ」では無い

当たり前と言えば当たり前の話ですし、また教習所でも習う内容だと思いますが、「死角に入ってしまった誰か」の安全を確保するのは、その対象が「我が子」に限った話では当然なく、「よその子」も大人も、他人も含めた全ての人であることは言うまでもありません。

と言う訳で、その安全を確保する方法は「発進前にクルマの周囲をグルッと一周して見回す」ことが最も有効だと思っていまして、私はその通り実践しています。

これを実践していると、例えば先に少しだけクルマを動かして、直後に子供を乗せ上で述べた通り運転席を離れ後部座席でチャイルドシートの確認を行ってから、また再発進するとかやっていると、「グルッと一周」の回数が増え手間が増えるだけなので(運転席から離れたりして全く別のところに視線や意識を長く逸らした後に再発進する場合は「グルッと一周」の対象と考えている為)、基本姿勢として「可能な限り全てのことを発車前に済ませてから発車する」ようになると思いますし、それは安全向上に繋がっていると思っています。

なお、私は原則的に「毎回」やっていますが、諸般の事情により毎回は無理でも、例えば小さな子供が歩いている可能性が高い、スーパーやショッピングモールの駐車場とか、幼稚園などに迎えに行った際に一度完全に駐車し暫く時間を置いてから再発進する場合とか、そういう場合に限定してでも全くやらないよりかはやったほうがマシと思っています。

これはこの項目に限らず、またクルマ関連に限らず全ての事柄に共通する基本姿勢だと思っているのですが、「毎回完璧に出来る訳ではないから、出来る時だけやったって仕方ない」と考えるよりも、「毎回完璧に出来る訳ではないからこそ、出来る時は実践する」と考えるべきであると、個人的にはそのように強く意識して生きています。

おわりに

冒頭で述べた内容の記事を見て、改めて思ったことを記しました。

クルマの運転 「ほんのちょっとだけ」の労力で安全面に大きな効果が出ることは山ほどあると思う

先ほどインターネットでニュース記事を見ていて、いくつか交通事故の記事も目にしました。

今回は個別の事故形態について何かを言いたい訳ではありませんので、記事の引用はしないのですが、改めて思ったのは、「ほんのちょっとだけ」の労力と言うか、気を付けると言うか、そういう「ほんのちょっと」で安全面に大きな効果が出ることって山ほどあるのではないか?と思いました。

例えば「シートベルト」なんて装着する為の労力は本当に「ほんのちょっと」だと思うのですが、その「ほんのちょっと」の労力により得られる効果は本当に大きいように思いますし、それは自分がドライバーなのか同乗者なのか、また前席なのか後席なのかも問わないように思います。

他にも、例えば運転中にケータイに電話やメールを受信したような時でも、「ほんのちょっと」くらいは後回しにしたって大して困らないような用事が大半のようにも思いますので(仮にもの凄く大事な用事であったとしても後から掛け直すまでの時間が「ほんのちょっと」なのであれば問題にならないケースがほとんどだろう、というような意味です)、自らの命の危険の他に、他者(特に歩行者や自転車など)の命を危険に晒してまで「ケータイしながら運転」をすべき事情というのは、個人的には思い当たりません。

挙げればキリが無いのでこの辺でやめておきますが、もちろん特に自分がドライバーの場合は他者への安全もありますので労力の大小に関わらず安全運転の「義務」があることは大原則ですが、そのような大前提の意識とは別に、「ほんのちょっと」のことは「念のため気を付けておこう」と意識することもまた大切なことなのかも知れないと改めて思いました。

「プレミアムフライデー」に感じる矛盾

はじめに

私はマクロ経済に関して全くの素人ですので、以下の記述は「素人の戯言」に過ぎないことを、最初に申し上げておきます。また、ちょっとだけ思った「素人の戯言」ですので、手短に記します。

プレミアムフライデー」とは?

報道を読んでの「プレミアムフライデー」に関する私の受け止め方は、

・労働者の就労時間を短くし労働環境を改善する
・今までより余分に仕事から解放された時間を食事や旅行などの「消費」に費やしてもらうことにより経済状況を好転させる(景気対策)

の二つを両立させるような政策、と理解しています。

プレミアムフライデー」に感じる矛盾

プレミアムフライデー」の恩恵を受ける人は確かに労働時間が短くなり労働環境が改善されるのかも知れませんが、そもそも「国民の皆が働く時間を減らしたら」景気は悪くなります。何故なら平たく言えば「生産量が減る」為です。

景気の良し悪しは基本的にGDP(国内総生産)の大小で測られ、そのGDPというのは「三面等価の原則」が成り立ちますが、私は素人なのでそのような難しい内容の解説は抜きにして、もっと平たく「常識的に普通に」考えた場合、

・景気が良くなる…消費者の「消費」が増え、それに比例して労働者の「労働量」も増える

・景気が悪くなる…上記の全く逆

だと私には思われる訳です。

従って何かの政策により「労働者の労働量が減少」すれば、それに比例して「消費者の消費量も減っている」ハズ(=景気が悪くなる)ですし、逆に何かの政策により「消費者の消費量が増えている」(=景気が良くなる)のであれば、それを賄う為に労働者全体の「労働量」は増えているハズだと思う訳です。

従って、「プレミアムフライデー」の効用を謳うのに、例えば「景気が悪くなる点は諦めるが、労働時間をもっと短縮しよう」とか、もしくは「労働時間は増えてしまうが、景気を良くしてもっと皆で消費しよう」と言われれば話は分かるのですが、冒頭で述べたように「労働者の労働時間を減らしながら、浮いた時間で『消費』してもらおう」と言われても「?増えた消費に対する生産は誰がするの?」なんて思ってしまう訳です。

敢えていやらしい言い方をすれば、一部の大企業や公務員など「名のある場所で働く人たち」の労働時間が減り、その人たちが消費を行うが、その消費に対する生産を賄う為に、名も無き小さな企業で働く人たちの労働は過酷になるのではないか?などと思ってしまうのです。

おわりに

以上、冒頭の繰り返しになりますが、私はマクロ経済に関して全くの素人ですので、以上の記述は「素人の戯言」に過ぎませんので、ご了承下さい。