kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

息子が見舞いに来てくれて、一週間ぶりに会って思ったこと

(2017/04/19追記:PCにて見栄えなど修正しました(追記終わり))。

本日も入院中の病床にてケータイより更新致します。

手術をしてから一週間ほど経ちました。手術以降、妻は毎日来てくれていますが、息子は学校があるので来ていませんでした(現在小学四年生)。ちなみに自宅と病院はけっこう遠く、クルマで渋滞が無くても一時間程度、混んでる時は一時間半ほど掛かります。難しい手術ということで、「大阪府下ならここでしょう」みたいな一択という感じで紹介された病院なのです。

で、昨日は日曜日だったので、妻と一緒に息子も来てくれました。

「大きな手術を受けた」という特殊な環境ではありましたが、息子と会って居なかった「期間」としては一週間ほどでしか無かった訳ですが、それでも顔を見た時は「やっと会えた」みたいに思いました。

それは、普段の私はフリーランスで自宅で仕事が出来ているので、どれだけ仕事が忙しい時期でも息子とすれ違い生活になってしまい顔を合わさないみたいなことは全く無いし(原則的に夕食は皆で揃って食べます)、また当然ながら転勤(単身赴任)等もありませんので、すなわち「息子と(妻とも同じですが)毎日顔を合わし会話をすることが、当たり前」の日常を送れていることの証左であるように思えました。

家族との距離感についてどの程度が心地よいのかは人それぞれなのかも知れませんが、私は普通に毎日会話や食事をしたいタイプですので、フリーランスの仕事が順調で上で述べたような生活を送れていることの有り難さを再認識した次第です。

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息子が私と遊ぼうと持参したのが、ドラえもんボードゲームでした。日本地図上での「すごろく」みたいなやつの、小さい判のほうです。

と言う訳で、術後の後遺症はかなり改善したとは言え、まだ真っ直ぐ立って歩けないほどの「めまい」は残っているのですが、頭が大きく揺れないように注意しながら、息子とゲームで遊んだのでした。さすがに二回目は勘弁してもらいましたが(笑)。ちなみに部屋は個室です。

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そのゲームですが、息子がまだ幼稚園児だった頃に、私が買い与えたものです。

その頃はよくショッピングモールなどに行った際に、妻には一人でゆっくり買い物をしてもらって、私は息子を連れて二人で何か食べたり公園に行ったりして過ごす、というパターンが多かったのですが、そんな際にこのゲームを買ったのでした。

息子も今では既に小学四年生ですので、このゲームを買ってから何年もの月日が過ぎている訳ですが、それでもこんな時に息子が自ら思い出して持参してきてくれた訳ですから、そのことに関しても率直に嬉しく感じました。

「自動ブレーキ」の「試し」で事故を起こすなど有り得ないと思った

(2017/04/19追記:PCにて見栄えなど修正しました(追記終わり))。

本日も入院中の病床にてケータイより更新致します。

以下の記事を読みました。URLとタイトルのみ引用致します。

〈記事の紹介〉

https://www.chibanippo.co.jp/news/national/401244

自動ブレーキ作動せず事故 日産販売店長ら書類送検 千葉県警、全国初

〈紹介終わり〉

事故の概要を平たく書いておくと、客が新車試乗中に、同乗していた営業マンが、停車した前車に対して、自動ブレーキで勝手に止まるからそれを試す為にブレーキを踏むなと運転中の客に指示し、運転中の客がそれに従ったところ、自動ブレーキは作動せず前車に衝突し、相手に怪我を負わせたというような内容となります。

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止まるか止まらないか「試そう」と安全な場所でマットなどを相手にやるのなら話は分かりますが、今回はなんと「公道」で普通に「人」が乗っているクルマ相手にそれをやっている訳で、指示するほうも従うほうも、本当に「頭がおかしいのではないか?」と思ってしまうくらい非常識な行いだと、個人的にはそのように思いました。

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関連することで思ったのは、クルマどうしの衝突の場合でも、「その先には生身の人間が居る」のは当たり前の事実なのですが、その「当たり前」が直感で(肌で)感じることが出来ない人というのが一定数居るのかも知れないと、そのように思いました。

今回の件なら、相手がクルマではなく歩行者(生身の人間)だったら、さすがに「試す」なんてしないように思いましたし、相手がクルマであっても中には「衝突すれば簡単にダメージを負ってしまう生身の人間」が居るのだと肌で感じていれば、今回のような事態には至らないのではないかと、そのように思う訳です。

他にも、例えばシートベルトの大切さについて今までにも何度か記したことがありますが、特に後部座席の場合は今でも「装着しない」人って凄く多いという印象なのですが、これも事故が起こった際には、シートベルトをしていない人は席から投げ出され、室内のシートやガラスなどに頭を強打したりするかも知れないなんて「普通に起こり得る」と言えるほど簡単に想定出来る事態だと思うのですが、これを直感で(肌感覚で)感じることが無いからこそ、例えば小さな我が子をシートベルト装着無しで同乗させながらハンドルを握ったりすることが出来るのかも知れないな、と今回改めて思いました。

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私に関して、今回の手術の後遺症である「めまい」がどこまで改善されるのかは分かりませんが、クルマを運転出来るまで復活出来てまた運転出来る日が来たら、気持ちを引き締めなおして安全運転を続けていきたいと、そのように改めて思いました。

妻子にとっての「夫・父親」は自分しか居ないという話

(2017/04/19追記:PCにて見栄えなど修正しました(追記終わり))。

本日も入院中の病床にてケータイより更新致します。

前回のブログでは、仕事に関して、

「私にしか出来ない」(他の人では代わりが出来ない)仕事をする

というような意識は大切だが、究極的に言えば、どれだけ「オレが居ないとダメだ」なんて思っていても、ほとんどのケースにおいては「居ないなら居ないで何とかなる」ものではないか?と書きました。

従って例えば手術入院が必要な病気になるなどした時くらいは周囲に甘える形で「仕事に穴を開けて」も良いように思いますし、またそういうことがあっても仕事の「信用」が途切れないようにするという観点からは、元気な日常時においては、高い意識で良い仕事を続けておき、相手から「代わりはそうそう居ない」「事情があって離脱した場合でも早く戻って欲しい」と思われるような仕事を続けておくことが大切なのだろうと思います。

どちらにしても、余程特殊な仕事でもない限り、究極的には「居ないなら居ないで何とかなる」のだろうと思います。

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フリーランスの仕事を長年続けてきて、今回の手術入院で仕事の「穴を開ける」際に上で述べたようなことを思ったのですが、仕事とは全く別にプライベートでは私は妻にとっての「夫」であり息子にとっての「父親」である訳ですが、こちらに関しては仕事のように「代わり」が居る訳では決してなく、原則的に「私しか居ない」ということに改めて気づきました。

考えてみれば「極めて当たり前の話」なのですが、入院という「家族と強制的に離れて過ごす出来事」を経験して、改めて強く認識したのだと思います。

息子はまだ小学四年生ですし、「自分の責任は重大だな」みたいな気持ちもゼロでは無いのかも知れませんが、基本的には「自分のような男でも、そんな家族(妻子)を持つことが出来ている訳だから、有り難い話だな」というような思いは常日頃から持っていますが、今回のことでそのような部分も「より深く実感した」のかも知れません。

手術の後遺症の「めまい」がどの程度まで回復するのかはまだ分かりませんが、出来るだけ回復して、これからも妻と息子と三人で、力強く生きていきたいと改めて思いました。

「私にしか出来ない」(他の人では代わりが出来ない)仕事をする、ということの意味

(2017/04/19追記:PCにて見栄えなど修正しました(追記終わり))。

本日も入院中の病床より更新致します。手術の後遺症である「めまい」は、昨日よりも少し良くなった感じですが若干という感じです。

最初に書きますが、以下、フリーランスの立場で記していますが、本質的な部分はサラリーマンでも似たようなものなのだろうと思っています。

さて、いつも書いています通り、私は仕事を自営(フリーランス)でやっていますが(現在九年目)、サラリーマン時代も大差は無かった話なのですが、現在のフリーランスの身として「仕事を失わないように」(=いつまでも仕事の依頼が途切れないように)する為に心がけていることがいくつかあります。

一つは相手の満足度が高くなるような「良い仕事」をするという点で、これは極めて分かりやすい話のように思います。「間違いの少なさ」「時間の早さ」「説明資料の丁寧さ」と言ったようなものです(もちろん他にも山ほどあります)。

もう一つ、同等かそれ以上に大切に考えているのが、「私にしか出来ない」(他の人では代わりが出来ない)仕事をするというものです。

この部分は詳しく書けないのですが、仕事の依頼のされ方や内容、金額(単価)などから考えて、そのような部分もかなり評価されているという実感があります。

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が、ではその仕事に関しては私が居なければ、真の意味で「絶対にダメか」と考えたら、それは有り得ないでしょう。

現に、今回の入院の原因の病気が発覚するずっと前から長期でやっていた仕事で終わり切れないものは、他社さん(よく知っている同業者さん)に引き継いでもらいました。

手術の予後が良ければ「少し(1ヶ月ほど)休む」感じで仕事を手放す必要までは無かったのですが、予後が悪ければ長期間復活出来ない可能性もある訳ですし、今回の病気の内容を考えれば予後が悪い可能性だって普通に有り得ると思ってましたし、にも関わらず仕事を手放さないまま手術を受けるなんて無責任だと思いましたので、顧客にその旨を話し、同業者さんに引き継いでもらったのでした。

そんな訳で、仕事や何かに関して「オレが居なければダメだろう」なんて本人が思い込んでいたとしても、大抵のことは「居ないなら居ないで、何とかなる」場合がほとんどなのだろうと今回改めて思いました。

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ただし、「もし予後が良かったら5月頃から」という感じの仕事の話が入院前に既に何件かありましたので、それはフリーランスの身として「仕事が途切れることなく稼いで食っていく」という観点からは大変有り難い話ですので、常日頃において「私にしか出来ない(他の人では代わりが出来ない)仕事をする」と意識し工夫し努力することは大切なのだろうと、それは今でもその通りだと思っています。

そして、そういう仕事をやっているという意識の下に、出来るだけ仕事に穴を開けず納期を守るなどをずっと実践していれば、必ず「見ている人は見ている」のだろうと思います。

そして、それでも「どうしようもない」ような、それこそ例えば手術入院が必要な病気が発覚した時くらいは、「こんな時くらいは仕事は残った人たちで何とかしてくれるだろう」と甘えて良いように思いますし、そういう時限定でそこに甘えても、常日頃の「甘えを一切感じさせないプロの仕事」の実践の継続がベースにある限り、仕事の「信用」は簡単には途切れないのだろうと思いますし、そういう観点からも「常日頃の仕事に対する姿勢」は大切なのだろうと改めて思いました。

大病(真珠腫性中耳炎)をして改めて思った、「妻」の有り難さと「子供」の可愛さ

(2017/04/19追記:PCにて見栄えなど修正しました(追記終わり))。

自身の病気の手術は数日前に無事に終わりまして、現在、ベッド上で安静中です。

病気の件はまた改めて詳しく記しますが(予定)、真珠腫性中耳炎という病気でして、それほど簡単な内容では無い上に、病状の程度も酷い部類だったらしく、手術は全身麻酔で六時間ほど掛かりました。

手術後に目が覚めてから、意識はずっとあるのですが(基本的に記憶は残っています)、耳の奥底を触り(耳たぶの後ろを切開して骨に穴を開け、そこから耳の奥に入ります)、一部の欠損を認めながら「悪いモノ」を除去するような手術ですので、後遺症として酷い「めまい」がありました。

それは日常生活で時々目がまわったりするものとは全く次元が異なりまして、最初はベッドに寝たきりで「少し喋れる程度」の状態でした。しかし数日で急激に回復しまして(数日で急激に回復するのは想定通りです)、現在は歩きさえしなければ(ベッド上で体を動かす程度なら)、めまいはほとんど感じないところまで回復しています。

なお、今は歩こうと立ち上がると強いめまいがして普通には歩けないのですが、これも大半は「術後の後遺症」ということである程度は回復するだろうと考えてはいますが、手術前の状態まで完全に回復することは無いだろうと覚悟もしています(耳の中の一部機能を失っているため)。

と言う訳で、大好きなクルマの運転が出来るようにまで回復出来るかな?なんて不安に思ったりもするのですが、今このブログが書けるくらいなので、自宅でフリーランスでやっている仕事(ほぼ全てPCでの作業)のほうは大方は大丈夫だろうと少し楽観的に考えています。

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手術が終わってから、妻は今のところ毎日病室に来てくれています。家の用事や子供の世話もしながらなのに、有難いなと思っています。

身の回りの世話をしてくれたりという部分ももちろん有難いのですが、やっぱり精神面の部分というか、「オレは一人きりで頑張っているのではなく、この人と二人で頑張って生きていくのだな」と感じられるような部分に有り難さを感じたのだろうと思います。

特に手術が終わって一日目の頃は、意識は完璧に普通に戻っているのに「めまいはメチャクチャ強い」という状態なので、一体どの程度まで回復出来るのか凄く不安だったのですが、そんな際の「妻のサポート」は大変有り難かったのだと思います。

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で、私の顔色を見ながら妻は話しかけてくれるのですが、日常的な生活の話も多いのですが、そんな話の中の一つに、息子(小学四年生)が妻のお手製オムライスをメチャクチャ楽しみにしていて、その日の夕食で作ったら息子は山盛り食べた、というような話がありました。

そのオムライスの姿と、美味そうに食べる息子の顔が思い浮かんだ時、涙が出そうな感じの幸福感を感じました。

「自分は幸せな結婚をして幸せな家族と生きているのだな」と改めて思いまして、それは当たり前のことのようで、大変有り難い人生の幸福なのだろうと改めて思いました。