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kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

「結婚」と「幸せ」の関係 (結婚したい人はとにかく相手を探すべきと思う)

はじめに

記事の引用まではしないのですが、結婚しているかどうかと幸福度の意識調査に関する記事を見たのですが、読み返さずに書いているので不正確だったら申し訳ないのですが、確か「結婚している人」ほど「幸せと答える人が多く」、「結婚していない人」ほど「幸せと答える人が少ない」というような結果でした。

結婚を希望するしない×結婚したしていないの4パターン

その記事を批判したいとか、そういう訳ではないので引用していないのですが、普通に考えると、以下の4パターンがあるように思います。

(1)結婚を希望する→そして結婚した人

(2)結婚を希望する→しかし結婚出来なかった人

(3)結婚を希望しない→しかし結婚した人(諸般の事情で)

(4)結婚を希望しない→そして結婚しなかった人

「結婚出来たかどうか」という観点ではなく、普通に「希望に沿った人生を送れているか」という観点で見れば、結果的に結婚していようといまいと(1)と(4)は普通に「幸せ」であるような気がします。

そして(3)は現代ではあまり無いパターンなのかな、と思います(私が知らないだけかも知れませんが)。

普通に有り得る不幸なパターンは上記(2)

と言う訳で、(2)のみが普通によく有り得ると思われる「希望するが、それが達成出来ずに幸せが感じられない」というパターンであるように思います。

「普通によく有り得る」理由としてよく聞く(すぐに思い浮かぶ)ものが二つありまして、一つは「経済的な理由(結婚生活を送れるほどの稼ぎが得られない)」で、もう一つが「相手が居ない(出会いが無い)」です。

経済的理由のほうは今回は取り上げずに、「出会いが無い」ほうを取り上げます。

「とにかく結婚したかった」私は実際に結婚して幸せである

「結婚願望」って、誰か具体的な相手が居ないと抱かないものなのでしょうか?

私(45歳男性)は全くそうではありませんでした。非モテで二十代後半まで彼女居ない歴=年齢だったような男なので若者の頃なんて相手候補なんて全く居ない訳ですが、それとは別に、長い人生を長い目で見た時に、「いずれは誰かと結婚して、一人ではなく二人の人生を送りたい」と漠然とでも考えていた訳であり、それは若者の頃から(と言うか中学校を出るような頃からかも)ずっとそのように思っていました。

で、(二十代後半に恋愛は経験しましたが別れてしまい)相変わらず相手候補など全く居ない(=女性の知人さえ一人も居ない)状況で三十歳になり、そろそろ真剣に探さないといけないなと思って、真面目な出会いと宣伝している出会い系サイトに登録して、必死になって相手を探して妻と知り合って結婚した訳ですが、それから十五年近く経った今でも結婚して本当に良かったなと思っています。

「とにかく結婚したい」人は必死に相手を探したほうが良いと思う

「結婚だけが幸せじゃ無い」という言説も世の中にはありふれていますが、確かに上記の(4)の「そもそも結婚を希望していない」人にとっては確かにその通りなのでしょうし、もしくは「良い人が居れば結婚しても良いけど、居なければ別にしなくても良い」という人にとってもその通りなのかも知れません。

しかし相手が云々ではなく、人生として「結婚して家庭を持ちたい」と最初から考えている人にとっては、「結婚だけが幸せじゃ無い」という言説、すなわち結婚以外の様々な生き様等を紹介されたところで自分自身は「とにかく結婚したい」訳ですから有用では無いように思うのです。

もしくは、「昔からの風潮に流されて『結婚したい』と思い込んでいるのでは無いですか?」みたいな言説に関しても、確かにそのような思い込みはあるのかも知れませんが、小さな頃から色んなものを見聞きして育ち大人になっても抱いている気持ちが「自分の素直な気持ち」である訳ですから、仮にそれが「世の中の風潮」の影響を受けていたとしても、それを大人になってから無理して変える意味が分かりません。

大人になっても普通に「いずれは結婚して家庭を持ちたい」と考えていた人が、相手が居なかったという理由で結婚に至らなかったとすれば、どのような理由付けをしても必ず「負の感情」が残ってしまうように思います(単純に考えれば)。

と言う訳で、相手は居ないが「とにかく結婚したい」と考えている人が居るとすれば、「出来なくても良い理由」を探す時間があるくらいなら「とにかく相手を探す」ほうが良いと単純に思います。

おわりに

「別に結婚はしたくない」「無理してまで結婚などしなくても良い」等と考える人が一人の人生を選択することに異論は全くありません。念のため最後に申し添えます。

褒める子育て or 褒めない子育て ・ 叱る子育て or 叱らない子育て

はじめに

我が家には一人息子がおりまして、現在小学四年生です。

私(45歳男性)は息子が一歳過ぎの頃に仕事を独立しまして、以降は自宅で仕事(フリーランス)をしていますので、子供と関わる時間は長いほうだと思います。

子供の年齢に合わせて、自分の振る舞いも色々と変わっていると思いますが、基本的にずっと変わらないこと、それは、

・何かを頑張ったりした時などはストレートに「褒める」
・何か悪いことをした時などはストレートに「叱る」

というものです。これはずっと一貫していると自分では思っています。

ストレートに「褒める」

「褒めない子育て」というのもあるそうですが、私は普通に褒めるときは褒めます。

大した理由なんて特に無くて、それが自然に感じられるからです

何か複雑な理由付けをして「親として褒めたいけど褒められない」とか子供が「親からほとんど褒められたことがない」などの状況に至るのは個人的には極めて不自然だと思っています

「いつも褒めまくっている」という感じでは無いと思いますが、テストの点数が良かったとか、部活で頑張ったとか、他にも妻に対する態度が優しかったとか、そのような日常的な理由で日常的に褒めて育てています。

ストレートに「叱る」

上と同じ理由ですが、「叱らない子育て」と言うのは極めて不自然であると個人的には思っていまして、普通に叱る時は叱って育てています

この「叱る子育て」も小さな時からずっと一貫していますが、こちらは上記の「褒める」とは異なり、息子の年齢と共に「叱り方」は変わっていると思います。

小さな頃ほど「大きな声」を出していましたし、大きくなるほど「落ち着いた声で教え諭す」感じになっていると思います。

ただ、近年の「落ち着いた声で教え諭す」感じでも普段(叱っていない時)の雰囲気とは全く異なるようで、息子にとってはかなり恐いようです。(恐い、という表現は少し違うかも知れません。ようはかなり神妙な顔つきになります)。「叱る」と言うよりも「説教」のほうがイメージとしては近いかも知れません。

小さな頃は「悪いこと」である、例えばお友達に意地悪をしたとか、危険な行為をしたとか、そういうことが対象でしたが、大きくなるにつれてそういうことは減っていき、もっと高度な内容になっていきますので、私の叱り方も上記のように変わっていったのだろうと思います。

勉強の凡ミスでは叱らない

勉強に関してですが、いわゆる凡ミス(ケアレスミス)では基本的に叱らないようにしています。点数が良かったら褒めますが、逆に凡ミスで点数が悪くても、それで叱ることはあまりありません。

いずれ「受験」など試験の点数を意識しなければならない時が必ず来るのですが、今はまだその時期では無いと思っています。

勉強の本質は必要なことを理解もしくは暗記などすることであって、それがクリア出来ていれば目的は達しており、それの「確認」を行う目的の「テスト」の際に凡ミスをしてしまうかどうかは基本的に本質的なことでは無いというのが私の考えです

ただ、テストの凡ミスは普段の生活の「不注意」とも関係していますので、程度問題でもあると思っています。そういう意味で息子の不注意の程度が私から見て「小学四年生の子供だったらこの程度なら全く問題無いだろう」と感じるレベルである、ということかも知れません。

どちらにしても、親の態度が過剰に「テストで一点でも多く取れ」みたいな雰囲気になることは基本的に良くないと思っています

もちろん、学校の勉強で言うと「あまりにも字を雑に書いている」とか、自主勉強でやっている少しだけ難しい算数の勉強だったら「明らかに集中して考えていないような間違い」の場合は叱ります。

「叱る」際の注意点

完璧に出来ているかどうかは別として以下の点は気を付けています。

・叱った後に「不機嫌」と言うような態度を続けない。
・間違って叱ってしまった場合は素直に謝り、かつ何が間違いだったか、そして何を伝えたかったかをきちんと説明する。

おわりに

以上、手短に終わるつもりだったのですが色々と長々と書いてしまいましたが、一言で書くと、

・良いことしたら褒める(褒められる)し、悪いことをしたら叱る(叱られる)のが、人間として自然な姿

だと個人的にはそのように感じている、ということだと思います。

【私の禁煙の記録】 59日目~67日目で感じたこと(断念して喫煙再開)

はじめに

手術と入院の為に三月に入ってすぐから禁煙をしていました。四月に入って少しして入院して手術をして四月二十日頃に退院しましたが、退院後も禁煙は続けていましたが、68日目に断念し喫煙を再開しました。

まずは以下にその経過を綴った過去三回の記事のリンクを記します。

t-kazu-t.hatenablog.com

t-kazu-t.hatenablog.com

t-kazu-t.hatenablog.com

「断念」と言うより普通に「再開」という感じかも

途中でも自ら感じていましたが、自分で「どうしてもやめたい」という気持ちがあまり強くなく、入院、手術をきっかけに強制的に禁煙することになったのを機に「せっかくだから禁煙を続けてみようか」ぐらいの意識しか無かったのだろうと思います。

過去の報告(上記記事)でも書いていました通り、禁煙の反動でチョコレート菓子やスナック菓子の間食が増えまして、体重も69kg→74kgに増加していたのですが(身長は178cmです)、更に食べる量も増え体重も76kgまで増加した際に、何となく「マズいな」と感じて、その翌日から喫煙を再開しました。それが今から一週間ほど前です。

軽いタバコを一日10本・間食はやめられた

とりあえず一番軽い「1mg」のタバコで再開しまして、この一週間ずっと、一日の本数は8~10本程度です。こんな軽いタバコを吸うのは初めてですし、これだけ本数が少ないのも初めてです。この一週間は仕事も普通に再開していますが(それまでは療養で休んでいた)、とりあえずこんな感じで済んでいます。

間食のほうは喫煙を再開した日から一切しなくなりました。我慢しているとか気を付けているというより、「別に食べたいと思わなくなった」という感じです。ちなみに体重はとりあえず76kg→74kgに戻りました。

おわりに

そんな訳で、喫煙を再開してしまったので、このシリーズも今回で終わりとなります。

「一生吸い続けて良いのか?」と自問すると、いつかはやめなければならない気もしますし、でも当分はやめられないような気がしています。

「テレビ」と「ネット」に広告等の優先度はあるのか

一般の方の投稿だったので引用等はしないのですが、先日、購読している朝刊の投書欄を読んでいると、以下のような意見がありました。(いわゆる「ソース」は示せないので、私が勝手に作成した「想定問答」と捉えて頂いても構いません)。

七十代の方の意見で、その方はインターネットは全く利用せず、情報を得るのは主に新聞と「テレビ」だそうで、最近はテレビCMでも「詳しくはネットで」となっていることが多く、インターネットをしない自分には分からないというような内容でした。

インターネットをしないのが経済的な理由等ではなく「時間の無駄だから他のことに時間を費やしたい」というような理由であるにも関わらず、上のようなことに関して「テレビでももう少し詳しく広告して欲しい」と言うような要望を述べているというよりかは「不公平では無いか」と言うような不平不満となっていたので、少し驚いた訳です。

でも考えてみれば、特に高齢世代の方にとってはまだまだ「ネットなど全く信用ならないメディアで見るだけ時間の無駄」であり「テレビが貴重な情報源だ」と考えておられる方も多いのかも知れないな、とも思いました。

※ ※ ※ ※ ※

ただ、各種メディアに関してどのような思いを抱きどのように接するかはもちろん個人の自由なのですが、同様に民間企業が費用を費やし広告を出す際にどのようなメディアに対してどのように展開しようが、それもまた企業の自由のハズです。

これが国(政府)や地方自治体等の「公共」の広告(公報)であればまた話は別なのかも知れませんし、国民(市民)が「こんな公報は分かりにくいし不公平だ」と不平不満を言う対象なのかも知れませんが、民間企業の「広告」なのであれば、そのような色合いは極めて薄いと個人的には思いました。すなわち、消費者として情報を知りたいのであれば自ら積極的に接すれば良いだけであって、その情報が「閲覧は時間の無駄と感じるメディア」にしか無いのであれば、切って捨てれば良いだけの話のように思いました。

※ ※ ※ ※ ※

私は逆に「テレビ」のほうを見なくなって既に十年近く経つのですが、それこそ理由は「時間の無駄」だと感じるようになったからなのですが、もちろんそれは放送内容を「平均的」に考えれば自分にとって無駄だと感じるようになったというだけで、個別的に言えば番組にしてもCM(広告)にしても自分にとって有益なものはあるハズだと今でも思っています。

「平均的には無駄だから」と言う理由で、そのような有益性のあるものも含めてまとめて自ら切って捨てている訳ですから、「テレビにしか流れていない情報」があっても特に不平不満を感じないのは当たり前の話なのだろうと、個人的にはそのように考えています。

オートマとマニュアル(MT)で違いを感じる部分(MT車運転歴23年です)

はじめに

私は運転歴は約26年で、その内の約23年はMT車(マニュアル車)に乗っています(所有する愛車がMT車という意味です)。スポーツカーではなく全て実用車の範疇のMT車です。

途中で約3年ですがオートマ車の所有歴もありますし、サラリーマン時代はよく社用車(オートマのライトバン)も運転していましたし、この五年間ほどはセカンドカーとしてオートマ車も所有していますので、オートマ車の運転経験も普通にあります。

そんな私が「オートマとマニュアル(MT)で違いを感じる部分」を一言で述べると、「アクセルペダルの反応性の違い」となります。一昔前のオートマ車はこの反応性の悪さに辟易しましたし、近年のセカンドカーとして所有しているオートマ車は逆に「MT車より劣っているとは既に言えないな」と感じるほど良好です(所有や試乗の経験の無いクルマは分かりません)。ちなみにMT車の場合はこの「反応性」が悪いクルマなど経験したことはありません。

その辺りのことを二つのシチュエーション別に記したいと思います。なお、一昔前のオートマ車の記述は「トルコンAT車」となります(一昔前は大半がコレでした)。またここでの「一昔」とは大体25年~10年前を指します。

あと、オートマ車は「Dレンジ」に入れっぱなしの状態の記述です。私はオートマ車を運転する際は、基本的にDレンジに入れっぱなしです。何故なら私にとってのオートマ車の唯一のメリットである「両手ハンドル」をずっと堅持する為です(MT車は僅かな時間とは言えシフトチェンジの際は必ず片手ハンドルとなります)。そもそも必要に応じてシフト操作するのであれば、「オートマじゃなくてMTに乗れば良いじゃん」という話でもあります。

発進時や超低速時

MT車の場合は1速で発進して少しでも動いたら2速に上げて、それで路地などの超低速も走っているのですが、その状態でアクセルを「ほんの僅かに」踏み足したり戻したりすれば、その分だけ速度が反応するという素直さがあります。

しかし一昔前のオートマ車だと、そもそも発進時のクリーピングの(アクセルを踏まなくても進む)速度が速すぎて(強すぎて)、止まる訳ではなく「進む」のにも関わらず右足はブレーキを踏んでいるという違和感から始まり、クリーピングの速度を超えてアクセルを僅かに踏み足してもほとんど速度は反応せず、更に踏み足すと「ブワッ」と加速し過ぎてまたブレーキを踏む、というような「反応性の悪さ」が顕著であった訳です。

そして近年の良好なオートマ車、例えば現在セカンドカーで所有している現行(BM系)マツダアクセラ20S(6AT)なら、そのような違和感は感じずクリーピングの強さも必要最小限で、アクセルペダルの反応性の悪さを感じることはまずありません。

普通に走っている時の加速と減速

MT車の場合は自ら適切なギアを選択している限り、加速時、減速時ともアクセルペダルと速度の連動性に違和感を感じることはまずありません。アクセルを少し踏み足せばじわっと加速しますし、逆に離せばシフトダウンなどしなくてもじわっとエンブレが掛かります(もちろん必要のある時はシフトダウンします)。

一昔前のオートマ車の場合、こういう部分の感触もイマイチで、少し踏み足してもほとんど加速せず、更に少しだけ踏み足したら勝手にシフトダウンして加速し過ぎたりします。また逆にアクセルを離した時にも「全くエンブレが効かないな」という感じで一々ブレーキを踏む必要があり、MT車の「アクセルペダルを少し踏み足したり戻したりするだけで必要速度に調整できる」良好性と比較すると、かなり劣ると言わざるを得ないという印象でした。

そしてこれも、現在のセカンドカーである現行(BM系)マツダアクセラ20S(6AT)なら、既に「MT車の良好性と遜色は無いだろう」という印象となっています。

以上、二つのシチュエーションを述べさせて頂きました。

近年のオートマ車の良好性について

本当に最近(この数年)に関してはほとんど試乗もしなくなったので分からないのですが、この10年間ほどの話で言えば、一昔前と比べれば劇的に良くなっていると感じるオートマ車もありますが、全く良くなっていなかったり、燃費対策なのか分かりませんが「逆に悪くなっている」と感じるようなオートマ車もありました。それはトルコンATなのかCVTなのかもっと凝った機構なのかを問いません。

と言う訳で、現在のセカンドカーを購入する際も、上で述べたような部分を試乗で入念にチェックした上で購入しました(確か三回試乗しました)。

何故MT車に乗っているのか

現在のセカンドカーのように「MT車と遜色が無いオートマ車」があるのであれば、自分は何故にMT車に乗っているのだろうと考えると、細かいことは別のページで記しましたので今回は書かないのですが、一言で言えば「好きだから」に尽きるのだろうと思います。すなわち良好性が劣っていようといまいと自分の好きな「操作」を機械(オートマ)に奪われるのは「楽しくない」ので、自ら操作するMT車に乗っているのだろうと思います。

おわりに

今回述べたような内容は「MT車好きの目線」であると言えるかも知れません。例えば巡航中のアクセルオフでエンブレが効く効かないに関しては、「一々効くのは鬱陶しいので効かないほうが良い」という意見も考えられますし、クリーピングの強さだって「最徐行時は強いクリーピングを利用してブレーキを踏んだり離したりして調節するほうが良い」という意見も考えられます。

ただ、これだけ「オートマ車がスタンダード」な世の中なので、オートマ車が好きという人が「事情がありMT車を所有する」機会はほとんど無いでしょうが、逆にMT車が好きな人が諸般の事情でオートマ車を所有する機会は往々にしてあるのでしょうから、そういう意味で「MT車好き目線のオートマ車に対する所感」を記すことに一定の意味はあるのだろうと思い記させて頂きました。