kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

「仕事」と「お金」の関係

たまに「もし宝くじで○億円が当たったら、それでも仕事を続けるか」という設問やその回答に関する記事を見かけます。

これに関して思ったことを今回は書きたいと思います。

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私はお金の為「だけ」に仕事をしているという意識はありません。

すなわち、仕事というのは「自分の特性や能力を活かして仕事をすることによって、現在や将来にこの国に生きる国民の生活が少しでも豊かなものになるために貢献する行い」であると思っている訳です。

しかしながら、もし宝くじで何億円かを手にして、一生生活には困らない、という状況になったと考えると、例えば上で述べたような「社会貢献」の意識は同じであっても、その行いを「収入」と結びつける必要が無くなります。

すなわち、例えば「完全に無報酬のボランティア」でも良いことになる訳です。

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そのような状況になっても、自分は現在と同じような情熱を持って働くことが出来るのだろうか?

想像に過ぎませんが、それは難しいのかも知れないと思うのです。

すなわち、一定の拘りや情熱を持って続けている現在の仕事ですが、それが「自分や家族が生きていく為の収入」に直結しているからこそ、例えば私はフリーランスで働いていますが(九年目)、仕事の依頼が無くなり無収入になったら困ると考えて技術力や信頼の積み重ねを大切にしようとか、もしくは自分の意に反するような「不本意」な仕事は極力断れるだけの交渉力を維持する為に圧倒的な技術力を維持しておこう、すなわち「お金の為だから仕方ない」というような妥協を極力しなくて良いように身を律して常日頃から頑張っておこうとか考えている訳です。

そのようなモチベーションを維持しながら頑張って働く現在の「仕事」が私は心底から好きな訳ですが、仮に宝くじで何億円も当たってしまい「一生困らないお金」を手にしてしまった時に、それでも「仕事」というものに関して現在と同様の情熱を持つことが出来るかと考えると、それは難しいのかも知れないと考えるのです。

そして現在の「お金」のことも考えながら仕事に励み、そして一定の「結果」を得ながら満足感を持って働けている現状は、大変有り難い話なのだろうと改めて思いました。

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そんな訳で「仕事」と「お金」の関係について記してみました。

私が結婚「適齢期」に動き出せた訳

特別お題「『選択』と『年齢』」 でブログを書いてみる。

私(45才男性)は32才で結婚した。自然な出会いがあったとか、そういう話では全くなく、結婚相手を探す目的で(真面目な)出会い系サイトに登録し、そして同様の気持ちで登録していた妻と知り合い、それで結婚した訳である。

私は(若かった当時は特に)誰かの意見を素直に聞くようなタイプでは無かったので、親とか友人とか会社の上司とかに結婚を促されたり焦らされたりして「結婚しなくちゃ」などと思い立った訳ではない。

確かに「30才」という年齢は意識したし、それはそれまでに触れた色んな話により意識付けられたのだろうから、「他人の意見に全く流されない」なんてことはもちろん無いのだろうが(後に詳述する)、いざ「結婚相手を探そう」といつ、どのような方法で動き出すかに関しては、誰にも相談することなく、それどころか話すことさえ無く、一人きりで決めて動き出した訳である。

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女性にモテた経験は全く無く、二十代後半まで彼女居ない歴=年齢で、その後の恋愛経験も極少だった私が、何の勝算も無いのに誰にも相談することなく、よく思い切って動き出したものだと今から思えばそのように思わなくもないが、自分を突き動かした理由はたった一つで、それは「結婚は必ずしたい」という自分の強い思いだ。彼女が居た経験さえ全くない若い頃から「いつかは必ず結婚したい」と考えていたのであり、その自らの強い思いが自分を突き動かした「たった一つの理由」なのだろうと今でもそのように思う。

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ただ、仮に「動き出す」年齢が30才では無く「40才」だったとしたら、果たして私は結婚出来ただろうか。

それは誰にも分からないが、最低でも統計的には非常に難しかっただろう。更に「子供を持つ」ことまで考えると尚更である。

そのように考えると、人の意見に流されずに生きてきたなんて偉そうに思い込んでいる私であるが、現在の生活の中の「幸せ」の最も大きな要因である「結婚」に関して、動き出すタイミングを「30才位」と自分で考えるに至ることが出来たのは、それまでの日常会話や、もしくはテレビや本などで「他人の話」に触れていたからに他ならないと考えれば、実は「人の意見に流されずに生きてきた」なんて偉そうな考えは「考え違い」なのかも知れないと改めて思うのである。

更に言えば、「結婚は必ずしたい」と自ら強く思っていたからこそ私のような男でも結婚出来たのだろうと思うことは先述した通りだが、そもそもそのような「強い思い」を抱くに至るまでには、色んな意見や事象の影響を受けているのだろう。

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そんな訳で自分にとっての「結婚」と「年齢」の関係を振り返ってみた。

上で述べたような内容になっているのは結婚生活がずっと「幸せ」なまま推移しているからに他ならない。

私のような偏屈者とずっと一緒に平穏に過ごしてくれている妻に改めて感謝したい。

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特別お題「『選択』と『年齢』」

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「算数検定」の受検で息子が見せた成長

はじめに

本日、小学四年生の息子が算数検定(6級)を受験してきました。去年、三年生の時に初めて受験し(7級)合格して、今回が二回目となります。

塾に行っていないので(従って受験も団体ではなく個人受験)、全て自宅学習で受験の為の勉強を行いました。

今回受験した6級と言うのは小学六年生レベルですので、それに合格すれば次は5級となり算数ではなく「数学」となる訳ですが、息子自身はまだ四年生ですので、「絶対に受かれ」的な勉強のさせ方はしなくても良いかなと事前には思っていました。

ちなみに去年の「初めて」の受験の際は成功体験をさせてやりたいと言うか、どれだけ日々の自宅勉強を頑張って思考力や知識を身に付けて、私が父親として「けっこう賢くなっている」なんて褒めたところで(日々褒めていますが)、いわゆる「客観的な評価」は何も無い訳ですから、その評価(=「合格」という判定)を受けさせてやりたいという意味で結構頑張らせました。

今年は去年に合格した上での二回目なので、親としてそのような気負いも無かった訳です。

気負い無く勉強させていたが…

そんな訳で、一ヶ月ほど前から勉強を始めたのですが、このような受験が無かろうと日々15~30分程度は算数の自宅勉強をさせていますので、その時間を受験勉強に充てるという形でやらせていました。

思考力という意味ではそこそこいい線をいっている感じではありましたが、まだまだ未熟な部分もあり、かつ単純ミスも多いので(これは私が普段の勉強では単純ミスを無くせとあまりうるさく言わなくしているという理由もあると思います)、受かるか受からないか五分五分だな、という感じでした。

市販の模擬問題をやらせると、30問中21問程度正解で合格ですが、それを少し上回ったり下回ったり、という感じでした。

思考力という面ではそこそこいい線をいっている感じであるだけに、「もったいないな」と感じる部分もありました。

本気で取りに行きたいか?

そんな訳で、当初は気負いなく受験させようと思っていた私でしたが、試験のちょうど一週間前に息子に聞きました。「本気で取りに行きたいか?」と聞いた訳です。

「気負いなく」という方針は当初から息子にも伝えていましたので、そのまま続けるか、それとも最後の一週間は切り替えて「本気で取りに行くか」と聞いた訳です。上で述べた「思考力はいい線いっている」という話もしました。

部活(球技)で帰宅が夜の七時頃になる日が週に二回あり、小学四年生の子供がそこからハイレベルな勉強を集中して行うのは難しいので、もし算数検定を「本気で取りに行く」のなら、この一週間だけは部活は早帰り(夕方五時半頃に帰宅)にする必要があることも伝えました。

すると息子は「本気で取りに行く」と言い、そして「その一週間は全て部活を休む」と言い出しました。

勉強その他の観点からそもそも私は部活で夜が遅くなることには積極的では無いのですが、息子自身がその部活が好きで、遅くなる日があるのも本人の希望でやっているので、その点も踏まえて完全に休みではなく「早帰り」を提案したのですが、息子から「全て部活を休む」と言い出したので非常に驚きましたし、そして息子の本気度を感じたのでした。ちなみに何故に完全に休むのか聞くと、やっぱり体力的には疲れが生じるので、全く疲れていない状態で勉強に集中したいという話でした。

部活の他に「友達と遊ぶ約束」もこちらからは何も言いませんでしたが、その一週間は自ら一度も約束せずに帰宅し遊びにも行きませんでした。

本気モードに切り替えての勉強

そんな訳で、学校の授業が早帰りだったり途中から夏休みになったりしたという事情もありますが、最後の一週間は一日3~4時間ほど勉強させました。それだけ勉強させても特に集中力が途切れているという感じはありませんでした。

30問中、21問前後の正解を「1つ」上げる為にもの凄い量の勉強をする必要がある訳ですし、項目が多岐にわたりますのである項目に関し「勉強したけど、その内容は今回の試験には出なかった」なんてことは普通にあるのですが、そんな「受験の厳しさ」を知る良いきっかけだったかも知れません。

最終的には25問以上は正解出来るようになって本日の本試験に臨みました。

合否の結果に関わらず身に付けたものは色褪せない

本日の受験後、問題用紙を持って帰ってきたので、計算問題などは問題用紙にも答えが書き込んでありましたが(問題用紙の上で途中式も含めた全て計算して解答用紙に答えのみを書き写しているという意味です)、途中式がいらない問題は何も書いてなかったので何と解答したか聞いた上で採点したところ、29問正解していたので普通に考えれば合格していると思われます(1問の間違いは単純な計算ミス)。

ただ、解答用紙への書き写しのミスや(実際に自宅の模擬問題の際にも何度かありました)、解答欄が間違っている(ズレている)などあるかも知れませんので、不合格の可能性ももちろんある訳ですが、親バカかも知れませんが合格、不合格はどちらでも良いような気持ちにもなっています。

と言うのも今回の勉強を通じて算数力は確実に身に付いたと思いますし、例えば百分率とか時速の問題など、今までも日常会話の中の「算数クイズ」である程度の知識はありましたが、実際に検定の問題になると迷ったり分からなかったりする文章問題もありましたので、最後の一週間の勉強で徹底的にやった訳ですが、今回の本試験には全く出題されなかったのですが、じゃあその勉強には意味が無かったのかと言えば決してそんな訳はなく、その部分に関する思考力や知識を「確実に自分のものにした」という部分が非常に大切なことである訳です。

他にも色んな事柄の勉強をして、30問出題されて「分からなくて答えが書けない問題は無い」ほどまで思考力と知識を身に付けた訳ですから、仮に解答用紙への書き写し間違いなどの理由で「不合格」であったとしても、その「大切な部分」が色褪せることは何も無いのだろうと思っています。

そして、自分の好きな部活を完全に封印すると自ら決断して、長時間の勉強も集中力を切らすことなく頑張れた訳ですから、そういう部分にも息子の成長を強く感じた次第です。

おわりに

以上、息子の算数検定の受検に際して思ったことを記させて頂きました。明日からはまたのびのびと部活に遊びに励んで欲しいと思っています。

自治体も「炎上商法」に手を染める時代なのか

以下の記事を読みました。

headlines.yahoo.co.jp

ユーチューブで動画も見てみたのですが、個人的にはそこまで酷い動画であるとは思いませんでしたが、例えば、

・自治体のPR動画と考えた時に敢えて「女性を性的対象とする」ような内容とする意義があるのか?

というような観点から批判の声が上がることもまた十分に理解出来るところです。

それはさておき、批判される側の当事者である宮城県村井嘉浩知事のコメントを上記記事より以下の囲みに引用しますと、

一方、宮城県村井嘉浩知事は、16日に参加した仙台市長選(23日投開票)の立候補者の個人演説会で、今回の観光PR動画について、「(過去に)資料を作ったら『こんなの誰も見ない』というから面白いの作ろうと思って作ったら、『いやらしい』と(言われる)」と有権者の笑いを誘った。その上で「でもおかげさまで(閲覧数が)120万アクセス増えました」と強調した。

とのことであり、『でもおかげさまで(閲覧数が)120万アクセス増えました』と述べているということは、その動画の内容が社会的に与える影響がどうであるとか、もしくはそもそも「PR」したかった宮城県というものへの印象が良くなるのか逆に悪くなるのかとか、そういう観点における評価よりも「とにかくアクセス数を稼ぐこと」が上位にあるように感じられました。

仮に事前に賛否両論巻き起こり、不快に感じる人も少なくないのだろうと想定した上で、それでも誰にも見られないような動画を作るよりかは話題性になりアクセス数が稼げる動画を作るべきと考えて製作されたのであれば、それを世間では「炎上商法」と呼ぶのだろうと思うのですが、力のない個人が何かの信念に基づき広く意見を発信する為の手段としてそのような手法を取ることはまだ理解出来なくも無いのですが、現在では十分に有名な人でも「更に稼ぐ」為に敢えて過激な言葉で世論を煽ったり(そんなブログを発信し大問題になりテレビ番組を降板したアナウンサーも居ました)している訳ですが、更にはとうとう公共性の象徴のような存在である自治体までもが「アクセス数至上主義」に基づき公益性や品位といった「数字では計られないもの」に対する配慮を置き去りにしながら動画等を製作する時代なのかと思うと、個人的には暗澹たる気分となります。

冒頭で紹介した記事を読み思ったことを記しました。

テレビに「毒される」のかどうかは自分次第

はじめに

以下の記事を読みました。 

headlines.yahoo.co.jp

この女性議員の暴言ですが、私はいまだに聞いたことがありません。そのようなことがあった事実は新聞やインターネットの記事で「文字を読む」ことで知っているのですが、その実際の音声を聞きたいなんて微塵も思いませんので、敢えて「聞く」ことは無い訳です。

そして私の場合は「基本的にテレビを見ない」という生活をしていますので(もう五年以上になると思います)、そのような音声が「勝手に聞こえてくる」ということも全く無い訳です。

基本的にテレビを見ない

現在の私の勝手な印象ですが、テレビに対しては一例を挙げると、

・嘘か本当かよく分からないような情報が流れている
公序良俗に反するような言葉遣い等が氾濫している

というイメージがあります。

一点目に関しては例えば大して流行ってもいない事柄を「大流行」と言ってみたりとか、多くの医師の知見に反する内容をあたかも「一般的な情報」として垂れ流したりとか、そういうイメージです。

二点目ですが、いわゆる「お下品」な番組は昔からあったのですが、昔はその手の番組と普通の番組はある程度分かれていたという印象なのですが、垣根が曖昧になり、「お下品」ではないいわゆる普通の情報番組的な番組なのに上半身裸の人が座っていたり、汚い言葉遣いが氾濫していたり、というイメージがある訳です。

上記は私の勝手な印象ですので世間一般の受け止めは異なるのかも知れませんが、最低でも私は上記の通りの印象を抱いているので、自分自身に限って言えば「基本的にテレビを見ない」生活に切り替えたのだろうと思いますし、間違っても無為にテレビを付けっ放しにして「子供に見せる」なんてことはしないのだろうと思います。

親としての思考の深さの問題

以下の囲みに上記記事から引用します。

「いきなり叫ばれて、びっくりしました」と話すのは、保育園年長さんの娘がいる30代会社員女性。先日、慌ただしく出かける準備をしていたところ、娘が楽しそうに「この、ハゲーーー!」と叫んだ。

「朝、時計のかわりに民放の情報番組をつけっぱなしにしているのですが、そこで繰り返し放送されるのを聞いて、覚えてしまったようです。新しいギャグか何かだと思っているのか、叫んだあとケタケタ笑っています。人をののしる言葉だと理解していないぶん気が楽になりましたが、通りすがりに耳にした大人は気分悪いですよね。なので、言わないように注意はしましたが、理由については理解できないようで……。保育園でも、流行っているみたいです」

この方の親としての態度は相当に問題があるように思いました。

いや、子供にテレビを見せるのが良いのか見せないのが良いのか、その判断はどちらでも良いというか、価値観により様々だと思いますので「子供にテレビを見せる」こと自体に問題があると言いたい訳ではありません。

ただ、自分の価値観(子供を健やかに育てる上で自分が信じる信念)として「子供が人を罵るような言葉遣いは誰かの真似であっても出来るだけすべきではない」と考えるのであれば(この女性はそのように考えているのだろうと思います)、『朝、時計のかわりに民放の情報番組をつけっぱなし』にするなんて行動は有り得ないのではないか?と思う訳です。そして(以下の囲みに更に引用)、

豊田議員の口調を真似して娘が叫んだ日の夜、夫婦で話し合い、朝の情報番組はしばらくNHKにしておこうと決めた。NHKだけは、この暴言の音声をそのまま放送していなかったからだ。

と、問題が起こった直後なのに「NHKなら安心」なんていう判断は極めて安直であるように思うのです。

ちなみに私はテレビを全く見なくなる前、「民放はほとんど見ないけど、NHKだけは見る」という時期もあったのですが、NHKの情報番組で「韓国語でメールすることが流行っている!」みたいな番組を見まして(内容に関してはグーグルで「韓国語 メール 流行」と検索すれば今でも何がしかページが出てきます)、これが引き金となって「もうテレビは見ないでおこう」と決断したのでした。韓国が好きとか嫌いとかの問題ではなく「信憑性」に関して極めて大きな疑問を感じた訳です。

上記は随分前の話ですが、最近でもNHKで「睡眠薬が糖尿病に効く」なんて間違った情報を流して謝罪していましたが、これなんかも「間違い」というよりかは「耳目を引く為に不確かな極端な情報を故意に流している」という色合いが強いのではないか?と個人的にはそのように受け止めています。

と言う訳で私個人としては子供(現在小学四年生)にテレビを無条件には見せていないのですが、その判断に「民放」と「NHK」の違いはありません。

なお、くどいようですが念のため申しますと、自分とは反対に「子供が小さな間でも玉石混合の情報に触れさせて本人に取捨選択させながら成長させれば良い」という親の価値観を否定する気持ちは全くありません。

おわりに(テレビ=インターネットの時代)

前述したように現在は基本的にテレビを見ない生活をしていますが(たまに見るのはスポーツ観戦などや、自宅以外でテレビが付いている場合などのみ)、今後も絶対に見ないと思っている訳ではなく、時間的な余裕が生じれば「選んで」見れば良いと思っています。

別にテレビの情報の信憑性や言葉遣い等の乱れ等がインターネットより劣っていると思っている訳ではありません。ただ、インターネットの黎明期は私自身、テレビ>インターネットと思っていましたが、現在はテレビ=インターネットなのだと思っているので、インターネットの情報を受け取る際に「見るものを自分で選んで、かつ注意深く受け止める」ように、テレビに対しても同様に接すれば良いだけのように思っています。

従って例えばインターネットの映像や音声等を自分の好みに関わらず「付けっぱなし」にするなんて行為は「有り得ない」のと同様に、テレビに関しても「時計代わりに付けっぱなしにする」なんてことは今後も有り得ないのだろうと、自分ではそのように思っています。