kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

何かをやらかしてしまった「罰」として先生が「宿題を増やす」ということの意味

自分の子供の件では無いのでいわゆる他人事と言えなくも無いのですが、話を聞いて思ったことを手短に記します。

とあるお子さん(小学生)のクラスでは生徒が何かをやらかしてしまった時の「罰」として先生が対象の生徒の「宿題を増やす」という時があるそうで、そんな先生も居るのかと少し驚きました。

と言うのも、宿題をはじめ「勉強」が出来るということは子供本人にとっては本来「喜び」であるべき事柄のように思いますし、それと「罰としての苦役」は本来正反対であると思う為です。

そんな建前は横に置き現実を眺めれば、確かに子供たちが勉強を「嫌々」やっているということは往々にしてありますし、そのような現実を全て否定する気持ちはもちろん無いのですが、それでもやっぱり「先生」と呼ばれる立場の人と言うのは子供に勉強の「喜び」や「楽しさ」を教えるべき存在であるように思いますし、またそういう部分の追求こそ教える側の「プロ」としての存在意義のようにも思えます。

すなわち、単にカリキュラム通り教え決まった量の課題をやらせるだけなら、それこそシステムのほうが確立してくれば教える側は「プロ」では無い素人とか将来的にはAI(人工知能)とか、ようは「誰でも良い(雇う費用が安いほうが良い)」となりかねない訳で、もし教師という立場の人がそのように時代が移ろうことをよしとせず「やっぱり教える『プロ』が教えないとダメなんだ」と考えるのであれば、それこそ上で述べたような「学ぶ喜び」をいかに生徒たちに実感させるかという部分に拘るような姿勢を強く有することは自らの「存在意義」に直結する話であるように思う訳です。

上で述べた「何かをやらかしてしまった「罰」として「宿題を増やす」という」行為は、それこそ上で述べたような「学ぶ喜び」とは真逆の、勉強を「苦役」と捉えた考え方であって、それは上で述べたような理想とは相反するようにも思いますし、また生徒に限らず誰かに対して「罰として苦役を課し、それを確実に履行させる」というような振る舞い、考え方はいわゆる「学校教育」とは正反対にあるように思えました。

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例えば大人であっても仕事で徹夜などしながらハードに働いている人が居たとして、「その仕事が好きで自ら積極的に熱中していたら寝食を忘れてしまっていた」という人と、「上司から懲罰的に仕事を増やされそれを消化する為に徹夜している人」の両者を比べれば、同じような職種で同じような労働時間であってもスキルが身に付くという意味での有益性は天と地との差であるように思いますし、そしてそれは子供にとっての「勉強」も基本的に同じことのように思います。

そのような観点からも、現実世界は全てが理想通りとはいかないことは重々承知していますが、それでもやっぱり教える側の「プロ」である先生という立場の人には、「勉強を苦役と捉えず、出来るだけ学ぶ喜びを感じられるように生徒を導く」という部分には拘って欲しいと、個人的にはそのように考える次第です。