kazu-tの色々と思ったこと

1971年生まれの既婚の男でフリーランスです。色々と思ったことを記します。

山尾志桜里議員の不倫「疑惑」報道を見て改めて思ったこと

はじめに

民進党山尾志桜里議員の不倫「疑惑」が週刊文春にスクープされて大騒ぎになっているのを見て、改めて思ったことを記します。

ここでは週刊文春が報じた「疑惑」、すなわち不貞行為の有無までは分からないとしても、最低でも配偶者以外の男性と二人でホテルやマンションに宿泊したことは事実であるという前提で以下に書き進めます。

「疑惑」の域は出ないことも普通に有り得る

これは与党とか野党とか、もしくは議員なのか芸能人なのか等に関わらないのですが、男女がホテル等に宿泊したとして、そこに入室するまでは週刊誌等がスクープ出来たとしても、その中で不貞行為が行われたのか、もしくは単にお喋りしていただけなのか、それは当人たち以外には誰にも分からない訳です。

そこで当人たちが例えば「お喋りしていました」と言ったとして、外野が「では不貞行為が無かったことを証明してみせよ」と迫ったところで、これは典型的な「悪魔の証明」を求めている「筋の悪い議論」であるように思います。

すなわち、当人たちが「不貞行為をしました」と認めない限り、どこまでいっても「疑惑」の域を出ない訳ですし、真実はどちらであってもそれを「証明」する方法は当人側にも外野側にも無い訳です。

「疑惑」それ自体が問題である、という立場

普通の庶民感覚で考えれば、配偶者以外の異性と外泊しているという時点で「率直におかしい」のであって、その中で不貞行為が行われたのか実はお酒を飲んだりお喋りしていたりしただけなのかは、むしろ大した問題ではないという捉え方が一般的なのかな、と個人的には思っています。

「疑惑」に対する姿勢の整合性

先にも述べたように当人たちは例えば「中でお喋りしていただけでした」と話したとして、「じゃあ、中で不貞行為が無かったことを証明せよ」と迫るのは「悪魔の証明」を迫るものであり筋の悪い議論だと思います。

これは不倫等の疑惑に限った話でなく、例えば政治家と誰かが「談合」とか「忖度」などがあったようだという「疑惑」を週刊誌等が報じたとして、それに対して当人が「そんなものはありません」と否定した時に「では無かったことを証明せよ」と言うのは筋の悪い議論であると思うのです。

ただ、政治家と言うのは公人中の公人ですので、一般の人であれば自ら「無かったこと」を証明する義務は無いが、政治家に関しては疑惑を提起されたら自ら無かったことの「説明責任がある」という考え方はよく分かるところです。

ただしその立場に立つのであれば、それは対象の政治家が自民党なのか民進党なのかに左右されてはダメなのであって、どの政党に属する議員であっても同じ対象として考えることが基本なのだろうと思います。

特に、例えば野党の議員自身が、与党を追及するのに週刊誌報道に依拠しながら与党議員の疑惑を国会等で取り上げ、政治家なのだから無かったことも自ら説明せよ、みたいな感じで追求していたのであれば、逆に自分たちが週刊誌報道で「疑惑」を報じられた際には自ら進んで積極的に説明を行って然るべきだと思いますし、その疑惑の内容が「配偶者以外の異性とホテル等に泊まっていた」というような内容であれば尚のことであると、個人的にはそのように思います。

「有能な人だから」とかばうセリフの中の「有能」とは?

今回の件に限らないのですが、例えばコメンテーターがテレビで「有能な人だから」的な擁護、すなわち仮に不貞行為があったとしてもそれと「政治家の能力」は別物なのだから議員を続けて欲しい的な擁護が仮にあったとします。

このようなセリフを鵜呑みにしてはいけない最大のポイントは「有能」という部分だと思います。すなわち、これはコメントを発したコメンテーターとしてはその議員を有能であると「感じている」だけの話であって(もっと言えばそのコメンテーターの好き嫌いの話であるとしか思えない場合も多い)、その政治家が本当に政治家として「有能」であるのかどうかは国民の一人ひとりが個別に決めることです(私も含めた国民の一人ひとりが万能であると言いたい訳ではもちろんありませんが、国民が主権者として選挙で政治家を選ぶというシステムになっている以上、そのようにしか言い様がありません)。

すなわち、政治家というのは有権者に対する「信頼性」が最も大事であるという立場に立てば、「保育園の待機児童の問題」での積極性をアピールしていた政治家が実は不倫していましたなんてことが本当に事実なのであれば、政治家としては「万死に値する」という意味で極めて「無能」という判断だって普通に有り得るのだろうと思います。

おわりに

以上、山尾志桜里議員の不倫「疑惑」報道を見て改めて思ったことを記しました。